自分についてのいろんな<理由>を考え始めると、それは、すぐに「テツガク」になります。テツガクが好きでも嫌いでも、何のために?や、どこから来たの?や、自分はいったい何の一部なの?とか考えだすと、きっと答えのない永遠の謎に引き込まれてしまいそうです。でも、それを考えることが、明るい未来につながっていくとしたら? あるいは、それを考えることが、過去と未来をつなぐ何かになるとしたら、誰だって考え始めたくなるのでは、ないでしょうか。子どもの未来を考えることを仕事としている人なら、なおさら、かもしれません。
ちょうど10日前に映画「夢みる小学校」を観て、翌日に実際にその小中学校へ行ってから、そのような子どもたちの暮らしの場を作り出すことは、大人の責任だと強く感じるようになっています。この感覚は、私の中に眠っていた何かを呼び覚まし、自分が自分であることの<理由>とつながっている安心感さえ感じます。そうすることが、大事だとか重要だということでもあるのですが、それよりも、自然と調和しているように感じるのです。今日は映画「ベルファスト」をみて、なんだか、それがもっと強くなってしまいました。
どんなものに、それを感じるのかというと、辻信一さんの話の中にあった「ハチドリのひとしすく」や、自然栽培のレジェンド高橋博さんが育てている大根にそれを感じます。あるいは絵本「ぐりとぐら」が誕生するきっかけとなった、ホットケーキ作りのエピソードや、中川李枝子さんが保育士として過ごした「みどり保育園」の子どもたちのエピソードにも同じものを感じます。彼ら彼女らがやっていることは、それを続けていることと同じ<理由>です。それらは、いずれも大いなる自然の連鎖や営みとシンクロしているという安心感を感じるのです。
さらにいうと、それは本来、私たちがいた場所への回帰なのかもしれません。私たちが所属しているもの。私たちがいた場所。本来そこからきて、そこへ帰る場所。私は千代田せいが保育園とその家族で作る空間を、子どもたちの幼少期の居場所として、そんな場所にしてあげたいと願っているのです。私たちが所属する世界が未来につながっていく場所でありますように。