昨日ご紹介した満2歳を過ぎている二人の子ども(1歳児クラス)の会話は(写真)、その子にとって相手がいないと創発しない体験です。保育の焦点はこちらの環境論にあります。遊びにおける虚構場面が発達の再近接の領域であるといえる、そんな見立てをしたくなる「ごっこ遊び」ですが、どんな「地」を持ってきてみるかで、「図」は変わります。多様なレパートリーを語り合う談話が、当園の職員の特徴です。そのメガネは学ばないと見えません。そこは研修です。ただ見合っても視点は生まれません。
最近、面白いアナロジーに気づいて、色々と考えているのですが、それはあの「3つの資質・能力」のことです。あの三要素に分かれていることは、あの使い方を間違えると、また従来通りのことになってしまわないか、ということです。三つがつながって作用しあって働く体験としての「コト」が大事。また「学び」の姿を3つの視点から分析的にみることが出来ますよ、ということであって、それぞれの概念は、それ単独で常識的な意味でバラバラに解釈しない方がいいんじゃないか、という話です。評価が難しいからといって、それぞれがバラバラなんでことありえないわけで。
というのは、相馬先生にご紹介いただきた本「私たちはどう学んでいるかー創発から見える認知の変化」(鈴木宏昭・ちくまプリマー新書)を読んで、私たちに染み込んでいる知識、とか能力とか、身につける、といった言葉を見直してみることで、面白いことが仮説的に見えるからです。
この本の趣旨を私なりにまとめると、発達や学びは、その本質は身体的な「コト」であり、実践の中で創発している事象でもある。だから表象や記号に置き換わったもの(例えば文字や図で書かれた教科書)だけで、進める理解や知識は、当然ながら本来のコトではなくなるから変容しにくい。佐伯胖さんの「学びの構造」や「わかるということの意味」などに親しんできた私としては、この学びの環境との創発論は、とても面白いものでした。
「育みたい資質・能力」はあくまでも一体的に育むものであり、環境との創発という体験としての事態=「コト」を通して変容の姿として3つの側面から分析的に捉えることが出来ますよ、ということはないでしょうか。体験は生き生きと、全身と五感がかかわって実感が湧く働き、つまり情動も認知も動員されたものです。そこから人間ならではの、意味やよさを求める判断や思考が動き出すことで、本当の学びにつながっていく。そこに循環が生まれる。
こんな理解に一貫した理路を与えてくれているように感じたのでした。ただ飛躍するかもしれませんが、これは総合的な学習や、合科的な学び、あるいは体験学習や生活科、そうした「なすことによって学ぶ系」の理論とも整合性があるような気がします。特に、遠隔項がプロジェクト的学びの目的にあたり、その達成に向けた活動が、近接項の習得となって透明になっていく(身についていく)ことに似ていると思いました。
従来の言い方を借りると「なぜ学校で学ぶ知識が実生活に生きて働きにくいのか(昔は、なぜ転移しないのか、という言い方で問われていた問題)」に近いものへの回答の一つが、ここにあるように思えます。昔、波多野誼余夫さんに学力の転移問題のレクチャーを受けたことを思い出しました。