子どもは大人より辛抱づよい。
子どもといると「あ、そういうことね!」と気づくことが「たくさん」あります。「(ごめんね)そういうことだったのね」と。
たくさんある、ということは、子どもにとっては「気づいてもらえないことだらけ」なんだろうな、とさえ、思います。その「多さ・少なさ」加減は、大人は自分の経験から「たくさんある」と思えますが、経験の少ない子ども本人にしてみれば、なにが多くて何が少ないのかさえも、その基準さえ持ち合わせていない気もします。
だから、子どもはなんて辛抱づよいんだろう、って思う。
それに比べて私はすぐにイラッとしてしまう。
気づいてもらう、ということは「わかりあう」ということ。
いっとくさんは「相互承認」って言ってたな。ヘーゲルもそうだった。
わかってもらえた、と感じると、自分の気持ちが動く。一歩前へ。
だけど、気づいてもらえないと、気持ちはとどまる。
だから、人の気持ちも創発的にできているというのか。
もしも、気づいてもらえていないと、人はその次の気持ちになれない。
だから気づいてもらえてないと、思いはそこに留まってしまうんだろうな。それを気持ちが蟠(わだかま)っていくというのかな。こだわっているように見えるのかな。
そう見えるのは、こっちにおいで、と相手を変えたがっている見方だから。
そうじゃない。相手のことを「気づき合うこと」。気づくことは気を配ることだから、気配り。それをケアといもいう。
共感してもらえること、承認してもらえること、それがお互いに起きること。相互承認のこと。
子どもは辛抱強い。
大人はもっと辛抱強くありたい。子どもたちのために。
6つの「C」を読み返す。
コミュニケーション。
「対話して他者の思い・考えを理解する」
ああ、できてない。
「根拠くなき自信をいだく」
ああ、これかも。
「失敗に怯まず挑戦しつづける」
これなら、できそう。
でも「熟慮した上で」つきか。
よく考えよう。