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園長の日記

受け止めてもらいながら自分らしく共に学ぶ

2022/11/07

 

(きのうの続き)。一歩踏み出す先には新しい気分と景色が広がっている。

先週のことです、11月1日(火)。年長のすいすい組と、旧今川中の校庭へ運動をしにいきました。普段やらないようなものばかり。25メートルを全力で走ったり、ソフトボールを投げたり、両足を揃えてピョンピョン跳び越えたり、して遊びました。計測して、それを「体力」として測定するのですが、まあ、それはそれ。何をするんだろうと興味津々の子どもたちも、体験的に理解すると、つまり一回やってみて要領を掴むと、もっとやりたい、もう一回!と意欲が高まっていきます。

そこには自分の気持ちの思うままに伸びていくものと、その感触からさらに自覚的に何かしようと思う躍動する心を感じています。自分に何か足りないと思えることは、それをつかみたい、知りたいという衝動になっていく。「今の何センチだった?」と、さっきよりも、もっと!という自覚的な認識のもとでの「もっと」です。思わず動き出す学びから、ちょっと自覚的な学びへ、年長さんにもなると、そんな姿を見ることができます。

またこんなこともあります。ふだんは3階にいる4歳児クラス(らんらん組)のIHさんは、ちょうど今日満1歳になるY Yくんのことが大好きで、「お手紙を書いたから(ドアを)開けて」と頼みにきます。1階の0歳児クラス(ちっち組)のドアを開けてあげると「お手紙持ってきた」。そこにいた先生たちも慣れたもので、優しく対応します。そんなことを繰り返しているうちに、Hさんは、自分のやりたい気持ちを受け止めてもらいながら、それを実現させ、次のやりたいことを見つけていきます。目に見えて「落ち着いて、しっかりしてきたねえ、Hさん」という声が聞こえてきます。「Yくんが可愛くて、大好きだからね」と。育ちを喜び合うという小さな瞬間です。

その緩やかな変化は、振り返ればある時期にはこう、と学問的に言える質的なまとまりを持っていると、その属性を説明できるでしょう。赤ちゃんが世界を追視するようなことも、聞いたり、話すようになったり、はいはいしたり、のっそりと立ち上がることも、目の前のものをとってさわることも、歩み出して、走り出し、語り続け、つくり上げることも、肘を伸ばして自分の体重を何秒支えることができるかも、そこには付随してくる多くの学びがつながってあるからでしょう。長い目で見れば発達や育ち。その都度の学びは何かに向かって伸びていく。その何かとはどこへ向かっているのでしょう?(明日へつづく)

 

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