今日はいまベストセラーになっている本の著者とzoomで話し合う機会がありました。いろんな話をしたのですが、学校教育と保育が重なってくるテーマのうち、この二つが印象に残りました。それは自律と対話です。
その方は生徒の自律を大事に実践してこられた方です。手をかけすぎたり、指示してできるようにさせることが子どもの自律を妨げているというのは、繰り返し主張されています。この話は当園の理念に置き換えると「やってあげる保育から見守る保育へ」の趣旨と同じです。また対話の方は、合意形成の過程としての対話が中心でした。したがって民主主義の要でもある対話と同じ趣旨です。これは藤森保育道ではずいぶん前から「共同体から共異体へ」と説明してきたのですが、それとほぼ同じものです。
二つ気づきがありました。一つは同じ言葉でも想定することが異なると、プラスと思っていたことがマイナスにもなるということです。例えば保育では「寄り添う」というのは、大人が子どもの傍にいても、支えると同時に未知の世界への誘いにもなっている「自律の援助」と了解されているはずですが、その方の理解では、多くはやってあげたり過干渉だったりすることと誤解されてしまうのではないか、というのです。人によって言葉の受け止め方はかなり違うものですね。
また、この方の話を聞いていると、あたかも学校教育の中にいると、その世界で見聞きしていることが世間の大多数だと錯覚しがちになるのかな、と思いました。その方の見えている世界がそうだとすると、逆に学校の世界は、そんなに旧態依然としているのだろうかとさえ、不安になりました。本当にそれが大多数なら、それは相当に「ヤバイ」状況です。ある意見と意見が異なっているなら、それが両立できる「解」をぞれぞれが話し合って合意点を見出そうとすることが大事なのですが、そんなに簡単に多数決で決まっているのでしょうか。
いま民主主義の話が盛んです。宇野重規さんの「民主主義とは何か」は入門書として最適でしょう。私はジャーナリズムの勉強をしていた20代の頃に「異なる意見があるからこそ対話を通して社会が成熟する」と教わってきました。この感覚がなくなったら、異なる意見を取り上げる報道の意義も喪失します。これと同じことは、異なる意見を聞いて考えるという体験が、学校にもあるはずですが、現実はそんなに少ないのでしょうか。
そういえば、映画で比較するのもおかしいですが「夢みる小学校」に出てくる多数決よりも「こどもかいぎ」の方が、本来の民主主義的な姿勢を育んでいると、私は思っています。これは一度皆さんも考えてもらいたいテーマの一つですね。