私は12歳から13歳の頃、自律神経失調症にかかりました。全身の感覚がいや〜な感じになって、恐怖に襲われるのですが、それが定期的にやってきます。言葉では伝えられず、親に言っても心配されるだけで困らせることにしかならないだろうと分かるので、その苦しみは結局言えませんでした。雑誌に載っていた広告を見て、あるカセットテープと鈴がセットになった何かのセットを買って、寝る前に「右手が温かい、重くなる、左手が温かい、重くなる・・」のような自己暗示をかけて、リラックスするというのを毎日やってました。その不安感がくるときは予兆があって、「あ、来そう」というのが分かるのですが、それがくると自分の部屋で紐のついて鈴を目の前に垂らして、じっと見つめて「右に回れ、右に回れ」のように念じると、鈴が回るということをやってました。
いつしか症状は無くなったのですが、一度だけ母親が心療内科に連れて行ってくれたことがあります。それで何がどうなったのかは覚えていませんが、自分が何かの病気かもしれないということに、直面したことをよく覚えています。子どもは状況で物事に直面するのです。その状況というのはとても雄弁で、直接私に「体験」させてしまうものであり、その後で、その意味や解説や何かがついて来るだけです。その意味は、後になってよく分かるようになっていく、ということが物事の大抵の理解です。私の父親が戦争でラバウルにいき、朝「さらばラバウルよ〜」の歌を歌っていた心情も、後になって理解できるようになっていきます。
そのことを大人になると、錯覚してしまうのです。体験は言葉で説明できると思う人が出てきます。体験に含まれているであろう意味を先に取り出して、体系化して教えることができると、錯覚してしまうのです。それはできません。こっち方面です、とガイドはできても、体験はできないのです。言葉で説明された事柄だけでは、その意味は体験できません。こう書くと当たり前すぎる話に聞こえてしまいますが、教科書で体験に代わるものにはなり得ません。
身体は体験するようにできているのに、頭がその体験を分析的に理解しようとするので、頭は一部分しか体験できません。一旦分解しても全体ではないので、統合しようとしたがるのですが、それはいつまで行ってもできません。そのことを承知の上で、学問なり研究なりをされている方と、そうでない方は、自身の営みに謙虚かどうかですぐにわかります。わかっている方は慎重で繊細なのです。
そういう人間の限界という事情もあって、メタ認知が大事だとか、何々がこうだとかの知見が、なぜそうなのかを納得できるように説明していくことが大事だと思っていて、それはとても難しいので、引用したり、〜だそうだ、と伝聞で伝えるしかないことも多くなります。しかし、そういう意味では分かることとわからないことの境目にとても注意を払って生きてきたように思います。
そして、その説明のない教育のあり方が、多くの子どもを苦しめているように思えて仕方がなく、随分前から子どもそのものの在り方から、そのように学び続けることができる教育に変えたい、変えたいと願って、この仕事にたどり着いたという経緯があります。「おばあちゃんの作ってくれたカレー、美味しかった」と書いて命を絶った中学生のことが忘れられず、そうなってしまう生き方に追い込まれていまう若い人たちが、一人でもいなくなるようにしたい。ですから若い保育者や学生に「保育はこういうものです」と説いている先生に、どうしてそう言えるのですか?と聞いて、実はそこがまだよくわからないところなんです、一緒に調べましょう、と言ってくれる先生に出会うとホッとします。
今夜はそういう方々と火を囲んで心を温めることができました。このような方々は本当にありがたいです。