これからの新しい学校のありかたを考えていると、どうしても必要なものが、いろいろ見えてきます。保育園も同じことが言える要素があります。それは人が集まって何かすることと関係します。保育園では保護者がお迎えに来ると時々「まだ帰りたくない」という子が大人を困らせることがあります。「だって、まだ遊びたいんだもん」と言って、泣いてしまうこともあります。そんなとき、お家でできる遊びを想像してもらって「そうだ、あれをしよう!」と見通しを持ってもらうようなことをすることもあります。今日は年少と年長の男の子二人が、2歳児クラスのソファで「だってYちゃんとやっていたんだから」と、それまでやっていた遊びを続けたいのだ、といいます。保育園では友達と会えるし、一緒に何かができます。確かにそれは家庭ではできないものです。
そのとき思い出しました。きのくに子ども村学園が行った小中学校でのアンケート調査です。楽しいことは学校のプロジェクト(授業に相当するもの)で、友達に会えるということを大きく上回っていました。それはいいことなのですが、友達に会えることも、とても重要なことで、大抵の学校でもきっとその要素が大きいでしょう。しかし、ただ会えるなら家庭でも地域でも、それこそゲームセンターでもいいでしょう。やはり学校でしかできない学びに最も「行きたい」という理由がなければ、存在意義はありません。
そういえば映画「こどもかいぎ」の中で「ともだち」ってなんだろう、というテーマを話し合う場面で、ジュンくんは、友達というのはお互いのお家に遊びに行ったりすることだ、というシーンが出てきます。仲良しというのは、ただそこに一緒にいることではない、それ以上の大事なものがあることを物語っています。
学校の存在意義を考えるとき、子どもが個別に黙々と与えられた課題を考えて解く(例えば問題集を解く)学ぶことなら、家庭でも塾でも地域でもできてしまうでしょう。そこに「指導」が必要ならリモートでできます。しかし教え合ったり、他の人の考えを知ったり、自分の考えを話すためにまとめたり、通じるように言葉や表現を工夫したりすることは、リモートでもできなくはありませんが、その場でのその都度、変化する状況に応じた対応には限界があります。
さらに身体的な接触を中心とした人と人の関わりやコミュニケーション、協働して物を作り上げたり、ある活動を作り上げるために話し合ったり、そこで生じた事柄について、その場で考えや意見を述べあってアイデアを出し合ったり、あるいは考えが異なる場合に調整したり合意を作りげたりすることは、同じ場所を共にしなければできにくいことが多いでしょう。
さらに、それぞれの子どもの学びが、個別最適になっているかどうかの専門的ガイダンスの役割は、専門性が必要ですから、その役割も<学校>に必要です。その<かけがえのない子ども>のことと、<すごい世界>への橋渡し役は、大切な学校の使命でしょう。
そのような機能というか役割を果たすために、今でも変えてみる必要があるのは、幼稚園でも保育園でも、子ども同士の多様な関わりや対話、そうした「協同性」というものの充実であり、その一方で、大人が自らの営み(子どもの育ちと自らの保育)を振り返り、それと同時に世界が驚嘆に値するものに満ちているという予感に導かれた学びへの歩みを止めないことではないでしょうか。
過去の人間の生き方に学ぶとしたら、子どもたちにだけ学びを求めることではなく、大人自らもその学びを作り出していくことが幸せな生き方になるのではないかと、思います。今日29日は午前中に区内の保育園の方が二人、夕方には入園先を選んでいるご夫婦がいらっしゃいました。子どもの様子、先生の様子を見てもらいながら解説していて、そんなことを思い浮かべていたのでした。