私の友人から、Facebookでこんな書き込みをもらいました。
全く同感だったので、その内容をご紹介します。私が感じてきた「閉塞状況」を説明してくれています。ここからの解放が、ぜひ求められている気がしてなりません。変えるべき保育の本丸はここからです。
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倉掛さん、返信対応してくれてありがとうございます。
日本の場合、謙虚さや控え目の裏側に、いつも周りに同調することを良きこととする慣習・文化が根強いのだと感じています。そもそも個性とは独自のものだから、他者や外部の環境と接すれば「違和感」がつきまとうはずです。
それなのにその違和感よりも、大人は先ほどの慣習の正しさを教えこもうとします。僕の場合、小さい頃から学校文化になじまなかったせいか、この違和感をどう伝えたらよいのかをいつも悩んでいました。この違和感を自分としては素直に外に表現したつもりでも、大人からはいつも問題児扱いされ、説教されることが多く、辟易としていました。幸い対人関係に悩んだとしても、それを乗り越える鈍感さと、自分なりに考えたり調べたりする力があったため「うつ」にはなりませんでしたが。
要は、この「異」や「違」を幼いころから素直に発信できないことが、倉掛さんの言う「閉塞状況」の正体だと思います。自分でも言語化できないうちに、よくわからないままに同調することに慣れすぎてしまっている気がします。
僕が学校の風景でよく覚えているのは、「福島くん、それは今考えることではありません」と先生によく言われたことです。例えば僕は国語の授業で「なぜ○○についてもっと考えないのか?」と思ったり、数学の解の公式について疑問をもったり、速度と時間と距離の関係について疑問をもったりと、今でも自分で勝手に調べた記憶がありありと思い出されます。
守破離の「破」に行こうとすると、いつも連れ戻されました。連れ戻された世界は当然退屈なので、集中して聞くことができず、ひどい時には早退(脱走?)や欠席をするわけです。
学校教育に必要なのは、独自性や個性を尊重し、最大限伸ばす方法を考えることです。そのためには倉掛さんが言うように「違う考えや価値に出会って」、自分を超えていく体験を積み重ねていくことです。具体的には一斉授業を極力やめて、教材は共通だとしても学び方を自由にしていくことです。ただこんなことをは、僕が言わなくても倉掛さんはわかっているので省力しますが…。
いずれにしても倉掛さんが言っている閉塞状況は、深刻だと僕も思います。
この状況を変えていくには、やはり現場からでしょうね。
もどかしいのは、園を変えていっても、それが小学校以降の教育には参考にされない点です。
それなので「新しい学校をつくる会」に参加してほしいと倉掛さんに言われた時は、嬉しかったです。できる・できないではなく、何を実現することで世界を変えていきたいのか、そこが何より大切です。
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