「ねえ、お集まり始まるよ」「いやだ、まだやる〜」。
(写真はこの話の時のものではありません)
朝9時50分ごろ。にこにこ組(2歳児クラス)の子どももたちが、こんなやりとりをしていました。遊びを終えた4人はテーブルにつき、残り2人がレゴブロックで遊び続けています。子どもが生活の主人公になっていくように、どんな保育をしたらいいのでしょう。何をどう考えたらいいのでしょうか。その場にいた見学者2人と一緒に考えました。このとき保育のポイントは、やはり「子どもの姿」をどう理解するか、です。
それを考えないで、ただ『ほら、もう集まっているよ、お片付けして集まってください』なんて言ってやらせるだけなら、素人でもできます。それで子どもが納得するなら、簡単ですけど、そうはいかないものです。では、どう考えればいいのでしょうか? 見学者の園長先生は「本人が達成感を持って終わるまでやらせてあげる」といいました。
私はこう提案したのです。「子ども同士の関係がどう育ってほしいと、私たちがもつ「ねがい」が、本人たちの「見通し」(AARのA)となっていくように、環境の再構成を考えるといいんじゃないでしょうか」と。4人と2人の間の関係が、それぞれが願っている方向で合意されていくプロセスを考えるのです。しかもそれぞれが主人公になって。しかも起点は私たちの「子ども理解」から始まります。その上での何らかの働きかけが生まれていくことになります。しかも、それは担任にしか判断つかないような、微妙なものであることが多いのです。
この子たちと毎日接している担任が見えている子ども理解と、たまにしか見ない私などの子ども理解とは、子どもの見え方が違うはずです。前の保育園での事例ですが、園庭に「こぶし」の木があって、木登りができるのですが、その日も何人かが登っていました。その様子を実習生と見ていたのですが、「いいですね、木登りができる園庭なんて」と実習生がいいます。そのときです、そばにいた先生が「○○くん、登れたのね、やったねえ」と声をかけて喜んでいます。目の前には初めて木登りができた子がいたのです。私も実習生も分かりませんでした。これが、いつも子どもを見ている担任との違いです。
これと同じような見え方の違いは、テーブルの4人とレゴブロックの2人についてもいえます。私や見学者には見えない子どもの姿を、担任はピアノを弾きながら感じているはずなのです。以下は勝手な想像ですが例えば「あんな城みたいなレゴ城づくりが昨日から流行っているからなあ」だとか「あの二人が一緒に作っているときは、なかなか終わらないだろうなあ」だとか、一方のテーブルにいる子たちには「Fちゃんは今朝から張り切って散歩に行きたがっているし」とか、子どもの心の動きを想像しながら、どんな流れで彼らが「自分ごと」(つまり当事者意識のようなもの)になる関係が育っていくのかを考えているでしょう。
しばらくして、担任はお話をしながら「お名前を呼ぶから、そっちからでいいから返事してね」といって、一人ひとりの名前を呼びます。すると二人はブロックをしながら返事をします。そして水分補給のお茶を飲む頃には、ブロックはかなり完成し、二人とも飲みにきて、また急いでブロック作りに戻ります。
私は見学者に「そろそろ、これから散歩に行くか、お部屋で過ごすか、どこで何をするかなど、どう過ごすかを話し合うタイミングになるから、あの子たちも参加し出すんじゃないかな。どこに散歩に行くかなど、自分達のやりたいことを伝えないと、違う結果になると嫌でしょうから。参画のタイミングで戻ってくるんじゃないかと期待しているんですけどね」と話しました。でも実際は、そうなりませんでした。散歩に行く準備が始まってから、二人はブロック遊びをやめて散歩に行く準備を始めたのです。遊びながら先生の声を聞いていたので「それならやる」と思っていたのでしょうか。それはよく分かりません。でも、これが彼らなりの朝のお集まりへの参加の仕方でした。
このように、子どもたちは自分の好きな遊びを自分で始め、そして自分で「お終いにする」まで続けます。遊びの自立とは自分で遊び初めて、自分でお終いにできることです。そのタイミングは、自分でこうしようと、見通しを考えながら、あれこれ考えているのです。この時期の二人にとってはそこまで育っているので、それで十分なのです。とにかく自分で決めて初めて終われるというのは、大事な自立の姿なのです。そして、対話を重ねながら、徐々に自分の関心ごとと、他者の思いを重ね合わせて考えることができるようになっていくのです。