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園長の日記

入園見学者に説明する保育目標について

2022/12/15

子どもの姿から、よい保育を展開するというのは、どういうことなのだろう。1223日に締め切られる千代田区の令和5年度入園申込(第一次)を前に、園見学が続きます。その親御さんたちに「当園は3つのことを大切にしています」と、保育目標を解説しながら、本当によい保育って、どうすることなんだろう?と考え続けている園長(私)がいます。保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。もっとも高い目的は「共生と貢献」社会の創造です。

園で話し合ったり、実習生の記録にコメントを書いたりする時に、いつも保育とは?の「そもそも」のところに立ち返って考えます。経験的にきっとそうだろうと確信していることに立ち返るのです。それは園生活と遊びの中で、ということなのですが、ただその時に「世の中から期待されていること、つまり社会的に肯定されていくことを踏まえないと、幼児教育ではなくなってしまう」という意識が働きます。いつものように保育の質は、子どもの経験の質が大事だと考えるのですが、その時にやはりその経験が「子どもの育ちや学びに向かっているか」ということが欠かせないと考えます。自由遊び、ということでいいのですが、それをホイジンガやカイヨワなどの大人の遊び論で済ますことはできないのです。

すると、まずは子どもから世界へ向かっているか、ということが第一です。基本的信頼感の獲得でもいいのですが、もっと一般的にいうと、乳幼児が周りの物や事柄へ肯定的に対峙しているか、というか積極的に関心を寄せているか、ということです。子どもが問えば応えてくれたり、なんだろう?とか面白そう!とか、やってみたい!といった自発性が引き出されてくるような環境が用意されているか、子どもにとって活動が見えているか、子どもの方へ届いているか、といったことです。楽しそうだったり、真剣だったり、黙々とだったり、溌剌とだったり、反対にぼーっと眺めていたりということも含めて。一人ひとりの人権を基礎とした個人の尊厳に基づく「自分らしく」という姿になっているかどうか。子どもの姿で表す保育目標の1番目です。育ちの物語がきちんと個別にある、それが一人ひとりだということです。

その時に常に園生活では集団なので、個々の子どもがそれに向かって選べるようになっていないと、それを肯定的に取り込むことができません。世界との接点の持ち方が子どもによって異なるからです。そこで選択性ということが出てきます。選ぶのは子どもで、乳児からそれはできます。選ぶという言葉遣いが意外性を持つのなら、かかわり方が子どもによって異なるように、と言い換えてもいいです。どこにいるか、何で遊ぶか、誰のそばにいたいか、どっちを先にするか、あることをやっておわるタイミングも違っていいようにします。何をどれくらい誰と食べるのかも選べるようにしています。つまり、その体験がしっかりと充実したものにようになっているかどうかです。それが個別に違うのを許容する保育方法になっているかどうか、ということです。保育目標では「意欲的に」という、心情体験の中でも態度への架け橋となる心情です。

そして、園生活が集団であるというのは、社会生活があるということです。子ども同士のかかわり、共同生活が営まれています。複数の子どもたちが作り上げる生活の中で生まれてくる育ち、自立心と協同性の育ちを意識することになります。これが赤ちゃんの頃から心を通わせながら育っていくので、自分との関わり、物との関わり、身近な人との関わりが、生活と遊びの中で、子どもの中に取り込まれていくのでしょう。集団のありようが、個々の内面を作っていくのです。競争的排他的な集団だったらそうした社会的心理を個人が獲得してしまうのです。泣いている子どもにティッシュを持っていく子どもたちが周りにいるから、困っていたら「どうしたの?」という態度を見せてくれる幼児が育つのです。その姿を「思いやりのある子ども」と表現したのでした。

ホームページのブログによく登場する子どもたちの姿は、これら3つの要素が含まれていることが多いように思います。先生たちが好んで取り上げるエピソードでもあります。

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