自分で書いた昨日のコーディネートの話を読み返して、なんだか大事な、もっとわかりすい話を書き忘れたことに気づきました。子どもによって得意なことをお友達の中で分かち合ったり、共感しあったりすることもありますが、いろんな遊びや活動の中で、〜名人として登録したり、認定証を発行したり、お手伝い保育で「小さい子どもの気持ちに気づいたか?」を自己評価してシールを貼ったり、そんな可視化と共有ということをよくやっています。こういうことも、調整の一つでしょう。
こうした活動は、本人の良いところを認めて自信を育て、掲示したりしてあげることで自分を誇らしく感じたり、あるいは他のお友だちの良さに気づいたり、友だち同士の会話やかかわりを増やすことにつながります。また年齢の開きが小さい関係から大きな関係まで、幅広い関係の中での生活になっていると、憧れを持ったり、みられることで背伸びをしたり、そこに競争心や粘り強さが引き出されたりすることもあります。
このような子ども同士の関係がどうして望ましいと言えるのか?という問いに対して、そういう経験のある集団とない集団のその後の比較をするという方法はとても難しいだろうと予想がつきます(いえ、私の不勉強で、実は結構あるのかもしれませんが)。ところが、多分こうした比較研究を待つまでもなく、こんな活動に意味がある、と思える根拠は、正統的な人間社会の縮図をそこにみとることができるからではないでしょうか。例えば、ある縮図は「優劣・競争・協同」とい線でスケッチできるというわけです。
何かが優れ、何かが劣る。その優劣を競い、また協力する。個人も家庭も学校も企業も、文化活動も経済活動も学術活動も、趣味やスポーツも、私たちの生活には、何かの規範やルールのもとに「競う」という営みがたくさんあります。国家間でも平和を築いたり戦争になったりする現実があって、そこには優劣をめぐる競争と協同が作用し続けているという事実を確認できます。
その営みが生命の起源から現在までの進化の過程にも見られ、文化や文明の中でも、そうした特徴が見られるわけですから、園生活での上記のような活動が、子どもたちの経験の正統性が、そこにあると言えるのではないかと思ったりします。長い間、そうした社会の中で人間は生きたきたのだということが、説得力を持ちうるように思えるからです。よく保育環境を考える時に、本物と出合うようにとか、世界を構成する要素の代わりに、といわれたりすることと近いと感じます。
さらに、個々の子どもにとってはどうなのか、とさらに分け入っていくと、無藤先生によると、進化心理学や社会心理学の中で「集団間、集団内の個人間(細かくは社会的な位置と個人間)、パーソナルな親密関係、個人、というあり方として区別できるでしょう。この区別は進化心理学・社会心理学で整理され、実証的に明らかだと言える」そうです。
そうだとすると、保育園の幼児たちが繰り広げている「優劣」をめぐる競争や協同という特徴がみられる活動や遊びは、集団と集団の間にも、その集団の中の個人と個人の間にも、とても仲のいい友達の間にも、さらにそれを超えた同僚的仲間関係の中にもあって、そうした関係を体験していくことが大切だろうと見当がつく、ということになりそうです。
そして、大事なことは「あることの優劣がすべてではなく,他の優劣もあり,また優劣と関係ない活動も多いことが分かることです。幼児に聞けば、誰が運動が得意か,誰が頭がいいか,誰がイケメンまた可愛いかすぐに答えます。それを超えて個人の価値のかけがえのなさと,協同で成し遂げられる凄さを実感して分かるようにすることが幼児教育というものです」ということでした。<個人の価値のかけがえのなさ><協同で成し遂げられる凄さの実感>。
こんなに意味の詰まった保育の言説は、芸術的であり、それを私は散文に書き換え、エピソードを加えて映像化していくことで理解に至るという作業を楽しんでいるのでした。