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園長の日記

やってきたサンタクロース

2022/12/23

「朝こなかったね」「寝坊して遅れてるんじゃない」「あ、わかった。プレゼントを持ってくるのを忘れて、取りに帰ってるんだ!」・・お昼ご飯を食べているときに、年長の女子3人が、今日もサンタクロースが来ないかもしれないと、心配して話していた。・・しかし楽観的な見通しで合意された。理由も本人たちの経験からの類推であり、これが、もっとも納得できる理由であるらしい。(今日の日記は、歯切れよく「である調」になります)

どうしてこないのか、と私にも聞かれたので「サンタさんだって忙しいんだよ、いっぱいこどものお家を回るんだから。トナカイだって走り疲れて、ちょっと休憩、ってことだってあるかもしれないし。みんなもお散歩でいっぱい歩いたから、疲れたら休んでたじゃない、ね。大丈夫、きっときてくれるよ、お手紙にもそう書いてあったじゃない」などと、話してみた。「そうだ、遠くから来るんだから、休んでるんだ。そうそう。」・・私はそれ以上、何も付け加えなかった。

そうやって午後2時。今朝「エルマー読んでね」と頼まれて「いいよ、おやつの前にしよう」と約束していた時間に、階段を客席にして、「エルマーと16ぴきのりゅう」の続きを読んであげる。子どもたちは、開園以来、ずっとこの話が好きで受け継がれている。

3時のおやつが済む頃に、サンタは来ることになっている。そして、なぜが先生がわざとらしくサンタクロースの歌を歌っていると(わざとらしくならないのが、子ども相手だからだが)、鈴の音が聞こえてきて(園内放送の天井のスピーカーから)、「あれ、なんか聞こえる!」という子どもの声で、みんなが気づく。サンタだ!

階段から本物のサンタが姿を表すと、10人ぐらいの子どもたちは駆け寄る。のそのそと歩くサンタは他の子供たちも固唾を飲んで見つめてるダイニングで、立ち止まる。先生がジェスチャーだけのサンタから、あっといまに饒舌な言葉を聞き取り(まるでテレパシーのように)「ねえ、みんなにプレゼントがあるんだって」というと、飛び跳ねて喜ぶ。本当に嬉しい時は、大人も立ち上がり、子どもは飛び跳ねるものなのだ、ということがはっきりとわかる。

「みんなに見せるから席についてくれるかな」という先生の言葉がまるで魔法のように、めずらしく効果がある。すごい。さっと席に戻る。なんだ、この聞き分けの良さは・・

「ほら見て、これは、紙芝居じゃない・・・」と子どもたちへのの意識はそこへ吸い取られ、静かな興奮に包まれている。サンタからのプレゼント。本当だった・・・そんな真剣な顔。(去年も経験しているはずだが、そんなものか)。

一番驚いたのは、サンタさんへ何かお礼をしなくちゃね、となって「歌を歌ってあげよう」ということになり、その歌声の気持ちの入りようは、本物だった。心がこもる歌声というのは、こういうことだったんだと納得する。お見事。サンタも喜んだことでしょうね。(先生たちもこんな姿を見ると、嬉しくなるのです。なお乳児の様子は、クラスブログをお読みください)

・・・・

さて、一体、クリスマスというイベントは、キリスト教の本来の趣旨から随分と離れたところに来てしまっているのですが、私は日本の一般的な社会の常識的な世界とそう違わないから構わないと考えています。(なぜか、ここからはデスマス調に戻ります)。

これが遊び、ということではないのですが、楽しい体験の中で世界を肯定的・積極的に取り入れ、随分と真剣に向き合いながら、仲間や文化の営みに参加していくこととして、成長や学びの芽生えをいくつも発見できるからです。

そこには隠されている知識が伝わっているはずで、つまりサンタクロースという存在がもつ、言葉にはならない暗黙の知の世界に耳を傾けようとする姿勢(本来のミメーシス)が息づいていると思えるからです。一方で、レインがサンタが両親だったことに気づいてトラウマになったという逸話も気になって調べたいと思ったりもしていますが。

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