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園長の日記

「これ、あげる」・・どうして?

2022/12/25

「先生、これあげる」と言って、自分で折った折り紙などを、私に上げようとする時があります。私はその意図がわからないときに「どうして?」って聞くことがあるのですが、はっきりしないことがあります。人に何かをあげる、ということを子どもは気軽にやる時があります。どうして、子どもは「これ、あげる」ということをし出すのでしょう? 何かをあげると「ありがとう」って言われることが多いので、嬉しい、という体験をしているからなのでしょうか。

1歳前後の三項関係が成立していく頃から、自分と人との間に物が入って「はい(どうぞ)」「ありがとう」といったやりとりを楽しむことが増えていきますが、その後、かなり経った3歳4歳ぐらいの子どものことなので、それとは別にどんな意味があるのだろうと考えてみるときがあります。別に気に留めるほどのこともないのかもしれませんが。

保育でよく語れるのは「やってもらった嬉しい経験から他人にもやってあげるようになる」といった言い方をよく耳にします。本当にそうなのでしょうか? そうはなっていない現実もある時に、何がその差を産んでいるのでしょうか。大人になると、他人に何かをあげる、プレゼントをするということは、そう簡単にはできなくなります。必ず、どうしてか、という意味を伴わないと、気軽にものをあげたり、もらったりすることはできません。誕生会やクリスマスイベント、お年玉のように、こういう時ならそれを気しないでやっていいという状況を作り上げてきたというように解釈できます。

その民俗学的な考察はとても面白いのですが、それはともかく、子どもの「これ、あげる」の行動にあるものは、ものを介した人との関わりの一つに違いありません。それが「交換」になっていく様相のなかに、協同性の方から自立心に影響を与えている要素を見出すこともできそうだと思えます。

考えてみれば、伝統的社会の獲物や採集物の分け方(採ってきたきた者の手柄にしない知恵など)、貨幣的なものの成立の条件、経済での商品と市場の関係、マーケットの公平性や政治の贈収賄事件など、至る所に人や権力とのかかわりの中に、「物」の介在したバリエーションが見出されます。

国家の成立と現代社会のグローバリゼーションまで、文化文明を「贈与や交換」で語ることができるからです。その中には必ず道徳やモラル、タブー、汚れたものを生贄にして純化を果たす動向などがあって、その起源としての人間性の中に、その生得的な性質も探られています。

その中から、主に保育にとどいてくる知見は、なぜ人は協力するのか、とか、なぜ教えあったり、分かち合ったりするのか、ということを調べているものがいろいろあります。交換することで私たちの経済が成り立っているように、人類史にも黒曜石だったり、塩だったり、貝殻だったり、ゴールドだったりが今の「お金」と同じ役割を果たした人類の歴史があるそうで、私の関心は子どもの利他性の発達との関係になったりします。

話はまたサンタクロースからもらうプレゼントのことにもどってしまうのですが、こんなに物質的に豊かになった現代社会の中では、聖ニコラウスの時代とは違う意味を見出しておく必要があるでしょう。まず、子どもが喜んでいるのは、それが欲しかったものだからです。日頃から叶えたかった願いをサンタが叶えてくれた、という喜びを子どもは嬉しがっているのでしょう。だとしたら、「はい、これあげる」と意味もなく差し出される折り紙をもらうときに、どうしてくれるの?という反応をすることで、なんでもあげれば喜んでもらえるとは限らない、ということを体験していくことにもなるのでしょう。そういう心情の機微はもっといろいろあるでしょう。

もう一つは、祝祭と園行事の関係です。社会自体が伝統的な文化を失っていっているように見える中で、子どもに体験させたいことはどういうことなのか、その再吟味です。そこに作用していることを、丁寧に取り出してみて初めて気づくことがあるので、その取り出し方も研究してみる必要がありそうです。人が「気づく」ことからしか、物事が見出せないとしたら、その気づきを生むような作業とはどんな営みなのか、ということです。質的研究の手法にヒントがありそうです。

 

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