日経新聞に「保育士礼賛」というタイトルで、歴史学者の藤原辰史さんが、次のような文章を寄せていました。まったく同感です。嬉しくて涙が出そうです。ですから、多くの方に読んでもらいたいので、内容を紹介させてもらいます。このような眼差しを、たまには、でもいいので保育園に向けていただきたい。
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ここ5年くらい、保育士との交流が増えた。講演会に招かれたり、保育園に伺って悩みに耳を傾けたり、驚くほど美味(おい)しい給食やおやつをいただいたり、子どもたちと遊んだりしている。
「給食の歴史」を執筆中に保育園の栄養士にインタビューしたり、「分解の哲学」という哲学書で、未就学児の教育施設を創設し積み木を開発したフレーベルを論じたりしたこともあり、「保育」は私の研究の中でも欠かせないテーマである。カントやドゥルーズを読むのと同じように、私は保育士の言葉と表情を読み、自分の思考を鍛えてきた。
先日、京都山科にある西野山保育園を訪れた。私の研究のためだ。やはり保育士の仕事は難しい。「保育なんて誰でもできる」という人もいるらしいが、片腹痛い。そんな人にはぜひ保育園を訪れ、エプロンを着て保育の仕事を体験してほしい。
園庭の子どもたちは思い思いに遊んでいる。不確実な動きに目が回りそうだ。数十人の子どもをわずか2人の先生がカバーする。サッカーで言うならば「ゾーンディフェンス」か。いや、そんな甘っちょろいものではない。味方ディフェンスの数は相手チームのフォワードの数に比べて圧倒的に少ないのだ。
ふと気づくと、隣の保育士はすっくと立ってある方向へと歩いていく。私は全く気づかなかったが、今にも泣きそうな子どもがその場に駆けてきた。保育士は寄り添って話を聞き、解決の糸口を探った。ミッドフィルダーの鋭いパスの先にフォワードが走りこんでくるようだ。その子をケアし終わるや否や、園庭のかたち、子どもの大きさや性格などを私に解説する。起こりそうな事故を未然に防いでいるのだが、その様子を微塵(みじん)も園児に見せない。園児が自由に失敗できるように、過剰な介入も回避する。
乳児の部屋の仕事もプロフェッショナルとしか言いようがない。手、足、目、耳は、それぞれ別の子どもたちに向けられている。ぐずる子どもをあやしながら、隣の子どものご飯をチェックし、訪れた私に笑顔で挨拶をする。保育士たちの身体はどうなっているのか。手に目があり、足に耳があるのか。全身の感覚が研ぎ澄まされている。
保育士たちのハスキーボイスは美しく、遠くまで響き聞きやすいが、威圧感がまるでない。調理室も忙しさを感じさせず、テキパキとなれた手つきで料理をし、様子を見にきた園児たちの鼻腔(びくう)をくすぐっている。絵や写真の添付された手書きの日誌は芸術品だ。給食室や部屋に貼られていて、保護者たちがその日の子どもたちの様子を温かい気持ちで知ることができる。
子どもの教育やケアに予算を出し渋るこの国では、園児の数に対し保育士の数はかなり少ないし、評価が著しく低い。西野山保育園の保育士の口から、ロボットで保育仕事が代替できると勘違いしている開発者たちのことを聞いた。いったい保育士の仕事をなんだと思っているのだろう。保育士たちは能力を向上するために夜も勉強会を重ねる。休日の一部を使って集会を開き、歌って踊って演奏して自分たちを高め合う。保育士のハスキーな歌声を聞いていると胸が熱くなる。あれほどの高度な仕事を支えているのは、保育士たちのあくなき探究心と誇りにほかならない。それに私たちが甘える時代はいい加減に終わりにしたい。