この年末年始は、現代の結婚式や成人式が、それよりも遥かに長くあった人類の「伝統的社会の通過儀礼」から、どこれくらい離れてしまっているのか、個人の自由を支援することが教育で可能なことなのか、そんなことを「千の顔をもつ英雄」のジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」から学び直すことにしました。この本は、ジャーナリストのビル・モイヤーズのインタビューからなっているもので、随分前にテレビ放送で見たのですが、その時の衝撃と面白さを思い出し、改めて本で読み直すことにしたのです。
きっかけは、ある人の言葉からです。「理解すると言うことは、思い出したと言いかえることができるかもと感じています」。そうだった、私たちの精神の奥底に、無意識や集団的意識を発見した経緯の中には、あの豊穣な神話的世界を、私たちの先祖は生きてきた歴史があったんだった、と。
神話と聞くと「3歳児神話」のように「誤った信念」という意味で使われることが多いかもしれません。しかしキャンベルの話を聞くと(これは対談なので)、それが全くそんなことはないことがよくわかります。いかに現代社会が、神話が伝えるようなあり方に比べて、人間の社会と精神の関係が、薄っぺらいものなってしまっているのかに気づかされます。また多くの今の現実がそうなっている、ということからの普遍性探求では足りないアプローチを、キャンベル流の「神話学の見方・考え方」から学ぶこともできます。ちょっとだけ、現代人の思考とキャンベルの思考の違いがよく表れている箇所の一端を紹介します。まえがき29ページから。
彼がやってきた探究について、自身がこう語っています。
「世界の神話に共通した要素を発見し、人間心理の奥底には絶えず中心に近づきたい、つまり、深い原理に近づきたいという要求があることを指摘することだ」。
モイヤーズがたずねます。「人生の意味の探究が必要だということですね」と。するとキャンベルが答えます。
「そうじゃない。生きているという経験を求めることだ」
また人生の苦悩について語る箇所では、「あらゆる苦しみや悩みの隠れた原因は、生命の有限性であり、それが人生の最も基礎的な条件なのだ。もし人生を正しく受け入れようと思うなら、その事実を否定することはできない」と述べた上で、私たちの信仰や信念の中に、神話が語るエネルギーが生きているのだという。そしてそのエネルギーを儀式が呼び覚ます。・・・
この本の要約を試みることなど不可能なのですが、私の拙い散文的な要約表現で我慢してもらえるなら、神話に触れることは、どういうことかというと、そこで語れている内容を、私たちが慣れ親しんでいる現代的な、いわば冷めた観点から、頭で理解することいったことではなく、まるで、美しい絵や音楽に心動かされるように、私たちが生き直す、とでも言っていいような経験になっていくことなのです。
ああ、こういう体験の一つが、イニシエーションになっていくようなものとして儀式があるのだ、ということに納得できるのです。そして気づきます。なんと現代の式典が形式的でつまらないか。卒業や卒園の儀式はどうあるべきか。もし子どもが大人になっていく過程に必要な、ある種類の生命エネルギーの再生がモチーフでありたいのなら、一体、何を祝って歌い踊ることなのか。