さあ、仕事が始まりました。体と精神がいつもの生活に戻っていきます。そして、こうして1日を振り返るたびに、二つの世界の往還の周期の中を歩んでいるという感覚が鮮明になります。もっとあの「精神世界」の中で魂の認識を深めたかったのに、とりあえず、それはもう棚上げして「現実の世界」でやらないといけないことをやるしかないという、山から降りてくる感覚。そしてきっとこの「現実の世界」に没頭していくと、またより大きな自由を感じる精神世界へ戻り、思索を深めたいという衝動に駆られて山を登っていくに違いないのです。
この行ったり来たりのリズムは、明かに精神世界から現実世界へとエネルギーをもたらしており、両方の世界のバランスが崩れると、よくありません。現実の世界はいくら体験や学問を深めていっても、それだけでは解明できないと感じる事実の前で、それ以上の思索方法が見つかりません。感覚的な認識では把握できないような世界です。たとえば宇宙や素粒子の観測データが示すような科学的な仮説(ダークマター、ビッグバンなど)です。脳科学にしても、そういうものだと、受け入れるしかなく、体験からくるものとは違うので自己の納得レベルは浅いものにしかなりません。
一方で、生身の欲求を制御して意志する力を感じる時、あるいは体験から直感的に納得するものは、そこに自由な精神を感じます。しかも、私にとって、その自明性は論理的認識の向こう側からやってくる感じのものです。例えばピタゴラスの定理の証明なら、辺の比率が3:4:5の直角三角形を使って、短い方の2つの辺の二乗の和(9+16)が、最長の辺の二乗(25)に等しいということを、正方形が並んだ方眼紙による展開図を書いてみれば、直感的に照明など入らずに、自明のこととして納得できます。この「明らかさ」と同じ「確かさ」を、自己の体験として求めているのです。数学的証明の確かさです。
ところが数学と違って、生物、とくにその存在が謎である人間について、しかもそのより良いあり方といった事柄については、どういうことがそうなのかを解明していくことは、極めて複雑で困難極まりないものだということがわかります。人間や人生の謎について、自然科学と人文科学、社会科学が総がかりで取り組んでいるわけですが、科学的エビデンスの積み重ねが明らかにしてくれている説明は、それを読んで理解することさえ、難しいことが多いので、それの要約や解説に頼るしかないというもどかしさと不自由さを抱えています。
それでも保育や教育は「現実の世界」として、一時も待ってはくれず、その歩みを止めるわけにはいきません。そしてまた同時に、生きる力の源泉に立ち返りたいという強い衝動があるのは。「現実の世界」に生かすことに中に、その意義を見出したいし、そこに自由を感じたいからなのでしょう、きっと。