園長同士がつながっていると、子どもの世界もつながりやすい。子どもたちの交流は、水平方向にも広げてあげたい。今日はWHOがコロナで緊急事態の宣言を出してちょうど丸3年だそうですが、東京・板橋区、埼玉・川越市、長崎・平戸市の3都県を跨いで4つの園の年長さんがZOOMで交流しました。
大人はリモートやSNSで、つまり電子化された「もの」を介してコミュニケーションの大半をやり取りできますが、子どもはそうはいきません。目に見えるものは、実際に手にして触っていじって操作して・・がないと、なんだか体験が実質化してこない感じがします。やったという感じが、心もとない。そこで、やっぱり、実際に歩いて、あるいはバスや電車で出かけて会いにいくのですが、それだとあまり遠くには行けないというということになります。
このコロナ禍の3年の間に、大きく変わったのはリモートでのやり取りが気軽にできるようになったことです。パソコン越しですが、遠くのお友達との対話ができるようになりました。今日やったのは、それぞれの園についてクイズで紹介したり、子どもがマイクを持って外面越しに自己紹介(名前と年齢や誕生日など)したり、何をして遊んでいるかを質問しあったり、最後はみんなが踊れるだろう曲(パプリカ)でダンスを楽しみました。
テレビやスマホ、パソコンが身近にある環境で育っているこの子たちは、スクリーンやプロジェクターにも慣れているので、そこに注意を取られることはあまりなく、スクリーンに映っている相手の子どもたちとのやり取りに集中していました。声が聞こえない時に、頭上に腕でバツを作って「聞こえない!」のジェスチャーを送ったり、「きこえますか?」と聞かれて、聞こえるときは「マル」とやっています。ギャラリーに設定しておけば、参加しているメンバーの園の様子や子どもや先生の顔が写り、自分達もそのコマの一つに並んでいます。
年長さんたちは、そこにそうやって映し出されている映像について、手を振れば手を振っている自分達の姿がそのまま写っているということを受け入れてみています。あまり驚きもしないのは、普段から園内での会議がリモートになり、先生のパソコンにフロアの異なる先生たちの会議のやり取りをそばで見ているという経験なども影響しているのかもしれません。画面越しに映像も声も映しあってやり取りしていることが、日常的になっているからです。
だとしたら、画面に今日写っている長崎県平戸市も、埼玉県川越市も、板橋区もここからの距離感というものは全くイメージできていないでしょう。私たち大人も毎日テレビ中継でウクライナのキーウからの映像もソウルのマスクを外した街角の映像も、行ったことがあるところとそうでないところとは、身近さが違います。さて、この続きはどう考えていくといいのでしょう。
子どもたちも、行ったことがある場所やあった事があるお友達、知っている場所とそうでない場所、共感を持てる間柄になっている対象とそうでない対象、あるいは自分の中に入ってくる世界になる場合とそうでない場合、・・・いったい何がその違いになっていくのだろう、どんな体験の積み重ねを計画していけばいいのだろう。外国の子どもたちと、通訳を介してでもやり取りをしてみたい。日本語ではない言葉との出会い方。それでも通じるという体験。
2年前の秋、私が田んぼに出かけて稲刈りをしている様子を実況中継したことがありました。子どもがよく知っている私を通じて、私がいわば子どもの擬似アバターのような役になるのではないかとそのときは期待してやってみたのですが、どんなだったのかはよくわかりませんでした。子どもたちの中に、どんなことが起きているのか、あるいはどんなことを起こすといいのか、考えてみたいリモートの体験です。