(園だより3月号 巻頭言より)
みかんの木を玄関用意することにしました。開園してまる4年間、毎年のようにアゲハが飛んできてみかんの葉っぱに卵を産んでくれるからです。ただ、そのみかんの木の葉っぱが丸裸になってしまい、みかんの木そのものが枯れてしまいそうなので、新しく植えることにしたのです。
ところで、なぜアゲハがみかんの木を見つけることができるのでしょうか。そんなことを考え出すと、なんでも不思議に思えてくるものです。ある種の蛾の仲間は、止まった場所によってその体を葉の色や花の色に変えてしまいます。保育園でもそれを観察してことがあります。摂取する葉のタンニンの微妙な量の差でそうなるそうです。昆虫がこんな「能力」を持っているように見えるのは、昆虫のその「個体」に全てが備わっているというよりも、植物を含めた周りの環境との関係からその「能力」が発現された、と見ることもできます。
これと似たようはことが人間にもたくさんあります。種類は違いますが、大人の顔を真似する新生児模倣とか、周りの子どもの喜びや恐れなどの感情が感染することとか、相手に同情したり公平感を求めたりすることも、子どもの周りに愛情豊かな人がいることや、心を通わせてきた子ども同士の関係があるからこそ、その場に現れた「能力」なのかもしれません。そうした人的な環境がなければ、そうした表情や、感情や行動は生じないでしょう。そうした具体例が、保育園生活を描いている日々のブログの中に、担任が丁寧に拾い上げて詳しく描写しています。
それらの子どもの姿が、一過性のものに終わらずに、しっかりと一人ひとりの育ちとなっていくために、毎日の地味な繰り返しこそが大事なのでしょう。ことさら大人の気を引くプロジェクトやら活動やら豪華な施設や設備が必要だとは思えません。あまり気にもされないような、それでも子ども本人にとっては、新鮮な刺激を受け、その中から興味をくすぐられ、対象に積極的にかかわろうとして、その世界との関係を深めていこうとしています。
保育園は私たち発達科学の知見を重視します。小さいうちに、子ども同士のかかわりの中での経験の差が、その後の発達の差となってしまうものがあるかもしれないという意識を持って保育をしています。その大まかなイメージとして、ウォディントンが提唱したキャナリゼーション(運河化)を思い出すと、ちょっとドキッとします。彼は、発生を運河の坂道を転げ落ちる球になぞらえました。京都大学の明和政子さんも『ヒトの発達の謎を解くー胎児期から人類の未来まで』(ちくま新書)の中で、この図を使って説明していました。
様々な遺伝子によって下からひっぱられた道は決して平らではなく、山あり谷ありです。安定した場所なら多少の外的擾乱やゲノムの変化が加わっても経路は乱れません。しかし分水嶺に達した時は、わずかな揺らぎが大きく進路を変えます。例えば遺伝子が3%変わったからといって表現型が常に3%変わるわけではありません。しかしゼロの時もあれば50%の時もあるわけです。
その分水嶺にあたるものが、何なのか? その時期に大切にしたいもの、特に敏感期や臨界期というものを、私たちは学びながら保育に生かしていきたいと考えています。