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園長の日記

焦点化が起きることをめぐって

2023/03/05

そうか「焦点化」がキーワードだったんだ! 少し前に改めてそのことを考え始めました。何かにフォーカスを当てること。ある地点に着眼点を当てること。注意を向けることと同じだろうか? 人の意識は何かに注意のカーソルを当てることで、世界のありようが立ち上がってくる。その前の段階は朦朧としているということ?不明瞭で不確かで何がなんだか分からないという状態? そのような状態のままだとどうなるのだろうか? きっとそのようなまま、ということはなくて、世界は動き、変化するので、きっと向こうから、外側から何かがやってくるのだろう。子どもにとって、その何かが迫ってくる感覚は、わけのわからないものだから「不安」になってしまうのだ。そう考えていいんだと、教わりました。

その不安な状態の中から、子どもはそれなら知っている!というわかるもの、わかりやすいものが見つかると、それを手がかりに(心がかりに!?)して、それを引き寄せようとするらしい。きっとそれが主体側から「かかわり」というものが形になる最初のアクションなんだろう。それが焦点化だった。そう言っていいものだったという。

そうか、私は言葉と意識が常に一致していないという不一致感があることが当たり前だと思って生きてきました。それは当たり前のことだったのかもしれません。生のいきさつを、とりあえず受精から考えても、個体が誕生するまでの成長は能動的とも受動的とも、分けることは難しいので、きっとこの「焦点を何かに当てる」という最初のことも、環境との相互作用として発現したものとしか言いようがない、ということが真相なのでしょう。真相、というか、私が今持っている概念でパズルのように辻褄合う意味を生み出す言葉の配列としてはそうなる、ということです。

きっと、現代の発達論は、私たちが思い込んでいる概念そのものの変更を要請されながら、生命の動向を捉えようとしているのだ、ということはわかる気がします。それにしても、事実として起きていることを、既存の言葉で説明し尽くすことが出来にくいほど、明白な事実を語ることが難しいのかもしれません。しかし、だからこそ、哲学が大切な時代になっていることも、世界を表現する表象体系のありようを検討し直すことも欠かせないのだろうと、ぼんやりと察知できます。本当に「ぼんやりと」なので、困ったものです。(ぼんやりだから、本当には困ってないんだろうな)

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