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園長の日記

学びの門はどこにあるのか?

2023/04/09

春休みが終わって、先週7日金曜日が入学式で、卒園した子たちがランドセルを背負って保育園にやってきました。つい先日まで一緒にいたお兄さんお姉さんが、ピッカピカに輝いて見えたことでしょう。

そして明日4月10日から多くの学校が新年度の授業が始まったり、企業や役所の仕事も異動の挨拶なども済んで、通常通りに戻っていくのではないでしょうか。

保育園の場合は、1日からあるいは3日からすでにいつもと同じ生活が続いています。働くお父さんお母さんたちのための下支え的な役割があるわけですが、子どもたちが過ごす生活の場として最もふさわしいようにしていきたいと思います。

さて、昨日8日(土)の教育講座で、藤森理事長の講演は、私たちを取り巻く社会の変化の話から始まったわけですが、少子化、AIの進展、グルーバル化、ダイバーシティの4つでした。その変化に共通する現代社会の特徴は、これまでより複雑なことだったり、確率的にどうなるのか不確実だったり、いつ何が起きるか予想しようにも見当がつきにくいことだったりすることではないでしょうか。

その中で目標やビジョンを掲げて、その実現に向けて目標をたて、具体的な実行計画を練り、やってみてその結果を振り返り検証して、さらに改善していく。いわゆるPDCAを回しながら現実に対応していこう。そのために私の役割は何で、同僚や上司や関係する人たちとコミュニケーションをとり、意思疎通をはかりながら、チーム力を向上させ、信頼と対話によるリスペクト空間を作り上げていこう。コンプライアンスやリスクマネジメントも怠りなく・・・そうしたら生産性や質も向上するよ。きっとこんな「世界」に近いことでしょう。

もし現代社会の人、組織、社会の中に、このような似たような特徴があるのだとしたら、多くの人々はそこに「足りないもの」を感じ、プライベートな家族や共同生活の中に、その埋め合わせや回復や休息を求めているかもしれません。それは人によってあったりなかったりでしょう。満足している人ばかりならいいのですが。私なんかが「足りないかも」と強く感じるのは「意味」です。生きる意味。この世に生を供にする人類についての意味です。人生の目的とかとはちょっと違うのですが、日々の地味な目立たないけど大事な意味のようなものです。う〜ん、どう言ったらいいものか。

例えば、仕事で目の前のタスクを処理するために、その目的はなんだったのかと遠くに目を向けても、それが上に述べたような不確かな霧のかかったような見通しに置かれていることからくる不安があるかもしれません。ドラッガーを紐解いても、石工が生活のためではなく教会を建てるためと答えるマネジメントの話にしても、そんな大きな物語を信じられない時代のような気がしてきます。今朝、日本財団の調査で若者の多くが自殺を本気で考えたことがあるというニュースが流れていました。身近な人が相談役になってあげられるかどうかが課題だという。そうだろうか?

https://www.nippon-foundation.or.jp/app/uploads/2023/04/new_pr_20230407_01.pdf

日本財団子どもの生きていく力 サポートプロジェクト『日本財団第5回自殺意識調査』報告書

もっと深掘りすると、その根本的な課題はきっと、この世の生を受けた自身の生きる意味と目的がわからない、という現代社会の何かに埋没してしまっていることからくるのかもかもしれません。時代の中で「生が溺れている」ような状態?。人間関係の弾力的つながりができにくい状態? 何か大事なことが見えにくくなっているのでしょうか?

何か大事なことが本当の意味で「わかる」という体験が少なくなっているのかもしれません。本当にわかるって、大きな喜びです。だから個人の切実な「問い」が自覚できない状況なのかもしれません。大事な問いを自分で自己再生させていくような生きる力の育ちのようなものでしょうか?その問いに気づいてあげられない周りの何かが足りないからでしょうか?難しいですね。

先ほどの日本財団の別の調査では世界の国際比較もあって、将来なりたい職業や学校の学びの目的などに差があり、その国の特徴が出ています。

本気で死を考える「生きづらさ」は、青年たちにとって、大人からのアドバイスは大きな棚上げと先送りのように見えているかもしれません。社会や世界がどうなっているかということへの好奇心や知的関心を抱く、その前の自分の中に沸き起こってくる、どうしようもなさ、わかりたいことへ踏み出す学びが始まるまでの機会喪失、あるいは方法の見えにくさ。あるいは聞こえてくる「生き方」は成功パターンの伝授、自己啓発セミナー的な虚業っぽい自分探し、日本の外から福音が聞こえてくるかのような海外志向がまだあるかもしれないし、自分の置かれた状況からは手がとどかないという肯定感覚のもちにくさもありそう。

 

ここからは大きく脇道にそれますが、意味には4つの層がある気がします。

(1)動植物も持っている生存のための世界の意味。人間もそれはある。解釈者不要で成り立つ機能的世界。機能とセットというか、そのもの。

(2)次が自己が文化世界と出会う時に見つける表象的な意味。身体性も込みの言葉。これが保育園での時間。その意味づけが大事な保育の仕事と重なってくる。

(3)その次に経済的社会的な自己を作るための青年期に考える人生の意味。生き方の意味。これが冒頭に挙げた現代社会の特徴の一つ「コンティンジェンシー(Contingency)」偶然性や不確かさの中に置かれた自己の在り方の難しさと重なりそう。教育の難しさもリンク。

(4)そして科学とそうでない世界の理解における意味。現代的学問の課題。私自身もドラッグはないけど神秘主義や宗教的なものに引き寄せらる心をもつ。だからと言って、そちらで解決できたことにしたくない。だから、それとは切り離して、そこを科学(学問)が真摯に迫っていることを学ぶことが必要だし、やってみるろとても面白いし、そうあることこそ現実世界への対応としても重要。

ただ、そこへの階段をもっと登りやすくしていきたい。学校の先生が面白がれる学び方へ。人間らしい文化ツールとしてのAIの可能性がそこにあるといいんだが。もちろん、その課題もあるわけですが。過去の成功体験からのアドバイスもままならないとしたら、本当に難しい。どこに学びの門を開くといいのでしょう。

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