私は保育の世界に入ったときに、保育の大先輩の先生から「保育の見方を多様に学ばないといい保育につながらない」といった話を聞いたことがあって、当時はその意味が全くピンときませんでした。私が30代後半の頃です。新聞記者だったので、ある出来事は複数の第一次情報源から裏を取らないと事実として認定できないという常識を持っていました。ある人がこう言っている、それは本当か?別の人に聞くと別のことを言う。どっちが正しいんだ? そう言うことの繰り返しです。記者は自分の中に重層的な対話を作り出し、その結果から明らかなことだけを書く。事実に慎重でした(という気がします)。
でも保育の「事実」はそれとは全然、違います。「今日は公園にいった。ダンゴムシを見つけた。楽しそうだった」。これでは保育を語ることならない。生活の日記でしかない。素人でも書ける。だからなんだんだ、と言う部分がない。事実のどこに着目するのか、どう解釈するのか、何を大事だと思って抽出するのか。そこは保育や教育の「理念」や「思想」からの価値づけがそれを示唆する気がします。実際のところ保育原理は、だからそこに触れるのだと思います。
生物学者なら「こんなとろこに、こんな種類のダンゴムシが!?」かもしれないし(そんなわけないだろうけど)、公園管理課の人なら「子どもが触るのなら花壇の土に除草剤を撒くのはやめておくか」となるかもしれない。近所の人なら「まあ、あんなものを触って喜んで、子どもだねえ」かもしれないし、ある方面の方からは「砂利が椅子の隙間に挟まって掃除が大変なんだけどね」と苦情を言われたこともありました(ごめんなさい)。
例えば、私たちは保育者なので、それが当人の体験なら、何らかの発達や学びにつながっていることなのかどうかに着目するのだと思います。生活や遊びが、活動や体験が、子どもにとって発達や学びにとってどんな意味があると言えるのか?そこが基本的には求められるのではないでしょうか。・・・といった意味での着目の仕方です。遊びに意味がある、充実した遊びに意味がある、どうして?というあたりのことです。
ニュース報道では、そこは当事者がどう受け止めているのかというコメントの部分に近いのかもしれません。記者は自分の意見をもちろん書かない。それは読者に委ねる。しかし、わかりにくい事実は専門家に解説を求めることも多い。科学的発見の意義、美術品の価値、経済的見通しなど、現代は多くのものがそうなった気がする。解説がないとわからない。だから保育の意味も専門家の見方が必要だと思います。
だから保育の見方を多様に学ぶというのは、現在も続いています。今日は次のような言葉を信頼している先生からもらいました。昨日のペースメイキングの続きです。「人々とプラン(状況)とが互いに影響しあってペースメイクしていくのではないでしょうか」。この見方を当園の場合に当てはめてみるとどうなるんだろう。こういうレスが、対話があるから、情報を発信する意味がありますね。
すぐに、それはそうだ、と思ったのですが、待てよ、どんな保育の活動が生まれているのか、どういう力学が働いて保育の営みが動いているのかは、子ども主体ならある程度、子どもが主導権を持っているわけだから、その活動に振り向けられる資源(人々の数、つぎ込むエネルギー、時間などか)は、誰がどうやって決めているの? 人々って誰だ? ここには子どもも保護者も地域の人も、もちろん先生も入るだろう。だから「人々」となっているのだろうし。などと考えます。
そして保育であまり「計画に基づき」を強調しすぎないほうがいいのに、と思っていた頃のことを思い出しました。ルーシー・サッチマンを佐伯先生が翻訳紹介した「プランと状況的行為」を「幼児教育のいざない」で知って読んだ頃のことです。その話が今日のペースメイキングするのはどういう仕掛けになっているか?という問いだったのではないかと思い返されたのでした。だとしたら、ちょっと待ってくださいね・・・色々と考えてみたくなりました。