水遊びは気持ちを解放させてくれる。その文章表現を見て、ちょっと考えることがありました。当園の夏の「保健だより」にそう書いてあります。今日は屋上やベランダで子どもたちが、バシャバシャと水をかけあってキャーと声をあげて遊んでいる姿を見ると、健康的ないい活動だなあと実感します。
そこで、そうか!と気づきました。水という媒体とのこの「かかわり方」を領域表現で大切にしているプロセスと重ねあわせてみると、気持ちが解放される子どものありようのこと、つまり表現以前のことと思われる中に、表現へとつながっていく何かがあるな、と気づいたのです。
確かに保健的な養護的な側面と、なぐりがきをしたり、新聞紙をちぎっては投げあげたり、かえ歌をある種デララメに歌って、繰り返し口ずさんだりしている教育的な保育内容的な姿との重なり合いです。
それは感覚的、感性的にうちから出てくるエネルギーがあって、それが表出されているのですが、それが一旦十分に楽しまれた後で、さあ、水ってこんな感触があって面白いね、と改めて向かい合っていきたいと思います。
水というのは固定されにくいので、ジョウロや色水遊びのように別の何か容器のようなものを介するか、雨や川や海のように自然にあるものを利用するか、あるいはコップや水筒や食事などの「飲む」という、もっと生活に密着したものもあるかもしれませんが、いずれにしてもを水を表現の媒体にはしにくいのですが、身体的なかかわり方の対象としての水を考えることは大事です。浮く、沈む、泳ぐという身体的な体験も領域健康としても、これから始まるわけですが。
それを造形や音楽や劇やダンスとは同じように扱えませんが、身体的な水遊びではしゃぐ姿を見ていると、領域環境では何か対象化されすぎているようにも思えてきます。色水遊びや絵本の楽しみ、水族館で見た生き物たちの水中での動きなどがつながっていくときに、子どもが自分の身体と水との間に何かしらのコミュニケーションがもっと起きていでしょうし、実際にすでに対話が繰り返されているだろうからです。