山のことを考えていたら、なんとなく「人生の目的」について書きたいなってしまった。なんて野暮なことを。どこにそんな親和性があるのか知らないが、どうも山の彼方ではないが、その山の向かうとか、山河とか人生を投影させたくなるものが山なんでしょう。
誰もそんなことを考えるのが「山の日」でもなんでもないのでしょうが、考えさせておいて、眺めてみても登ってみても答えなんかないことを、思わせぶりにそれとなく気にさせているのが「山」というのもなんでしょう。いつ頃からだろう。そんなことで悩むようになったのは。悩むことと、考えることは違うのに、そこも混同させてしまうあたりに、山のもつ悩ましい変幻性が潜むのですね。
人生に所与の目的なんてなりありません。そうはっきりわかってから、本当に自由に生きようと思えるようになるわけですが、意味もないとまではいいませんが、ただそれも突き詰めれば虚構だと心得ておいた方がいいでしょう。だからこそ愛や探究が人生を超えた意味を創造する逆説的な面白さが展開されているでしょう。それにしても、なんとややこしい人生でしょう。時々はまんざらでもないとは思いますがね。
でも宇宙は完全な無でもよかったものを、なぜか存在してしまった。そこに意図や目的がありようがない。不思議でしょうがないが、そこに過剰な意味を押し付け合うのだけは、ごめん被りたいものです。存在してしまった者同士、せめてお互いに傷つけあったりすることなく、助けあってやっていきたいものです。