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園長の日記

思考や心情の過程にブラックボックスができる気持ち悪さ

2023/08/13

ご先祖様に、手を合わせながら、こんなことを考えてしまいました。

どんな仕掛けでそうなるのか、もはやわからない物だらけなので、こんな話をしても「何を今さら」と言われかねないのですが、でもできるだけ私は自分が自分で考えて結論を出したという「理路」だけは、できるだけはっきりさせておきたいと思っています。でないと、自分が言ったことに責任を持てないからです。と言ったところで大した責任は持っていないんですけどね。

何のことかというと、生成AIのことです。よく使いこなしている人は、これから言うことは、「卒業」しているのかもしれませんが、私はまだちゃんと入門もしていないので、こんなことを考えてしまします。私は自分ができるだけ自由でありたいと思っているのですが、自分で考えていることくらい、自分で意識してやっていると思いたい、と言うのも、そう思えないと自分が自由である気がしないからです。特にアートと保育の関係、子ども理解と保育者の関係などで。

生成AIが辞書や辞典だったらいいのですが、なぜそういう表現になったのかのプロセスが「見えない」場合や、表現自体をうむプロセスそのものに、価値がある創造的行為があるときは、あれを遠ざけるのではないか、というか使いたくないというか、使えないだろうと思うのです。

例えば、詩や俳句、和歌など特に個人の心情を表すものは、その生み出されていく過程がたまらなく楽しいからです。どんな言葉や表現にしようかと呻吟しているあの時間。そしてこれはどうか!と内から「湧き起こってくる言葉」のあの過程。そこに他者が割り込んでくることは考えられない。と言うか、そうなったらもう自分のものじゃない、という感覚があります。

たとえば男女の問答である和歌や返歌の間に生成AIが入ってくるなんて言う事は考えられない。あくまでも例えですけれど。

なぜなら、別に正解があるわけでも、評価されることを前提にその眼差しに合わせるわけでもないから、自分と世界の関係を表す唯一の、生きている時間がそこにあるわけです。

私が生成AIを自分の分身と思えるのなら、辛うじて共作者として認めてあげてもいいが、それはもはや私の表現ではないでしょう。あるいは優秀な助手というか、出しゃばらないアシスタントぐらいの感じでいてくれるのなら、許せるのかもしれません。作品自体を問題にするなら、それは結構です。坂本龍一らしいこんな曲を作れと指示して出てくる曲もあるでしょう。ピカソのこれこれとか、まあありうる話なのかもしれません。

それと同じように子どもの姿のデータから、環境の再構成案も出てくるようにのでしょう。そうなったら保育士の役割はどうなるのか。そこで思うのは先ほどの「自分と世界との唯一無二の関係を生きる」ことの意味です。子どもと保育者が暗黙にも公然にも交わす気持ちの、それぞれの「かけがえのなさ」を、保育の中でどう価値づけしておくか。それはどんな他者にも置き換えることのできない保育のプロセスの質だと、言い切れるようにしておくことは可能かどうか。

私は可能だと思います。だから生成AIがどんなに保育に入ってきても、内面の気持ちや心情は置き換えることができないのですから、そこを大切に守るためにサポートする道具になってくれたらと思います。でも、ある種の効率性が待ってくれないで割り込んでくる可能性はあります。出しゃばらないアシスタントでいてくれるかどうか。それに負けない人間性や内面が問われるのかもしれません。つまり、心。

 

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