私の父はラバウル小唄をよく歌っていました。南十字星というのを知ったは、その歌からでした。ガダルカナル海戦やミッドウェー海戦の話もよく聞きました。海軍だったのです。飢えたとき、なんでも食べたといいます。「環境」は人をひどく変えます。戦時という状況は、人を逆らえなくさせてしまいます。非国民や卑怯者と言うレッテルを容赦なく突きつけられるからです。それに抵抗するのは想像を絶する、とんでもなく強靭な意志が必要でしょう。大抵の人は無理だと思います。
漫画「はだしのゲン」を中国語に訳した女性が、テレビに出ていました。その方のお父さんは先の戦争で、無辜の母子を機関銃であやめてしまったと晩年の手紙に悔やみ切れない思いを書き残していたそうです。漫画に出てくる反戦を貫く中岡元の父親の姿と比べてしまったといいます。何がちがったのかと。
私は自分の父親に、どうして戦争に行ったのかと聞いたことありません。そんなことは思いつきもしませんでした。徴兵令状を拒むなどと言う選択肢はありえない状況だったことが大前提になっているからです。戦争に行った父もその話を聞いている子どもの私も。過去の歴史についてと果てしない解釈論争に巻き込まれると、繰り返さないために必要な未来に向けた思考へのエネルギーと時間を奪われかねません。ただその論争は今も国際政治の力学として働き続けているわけですが。
毎年同じように繰り返されるニュースも、アハ体験の動画のように、少しずつ「環境」が変化しているのかもしれません。あるとき、びっくりするような変化に気づくように。現在進行形の異常気象と少子化のように。そして、ソーシャルメディアを覗くと「それ本当だったら大変なことだ」と思うような内容がてんこ盛りの状態なのですが、ほとんどが素通りされているように見えます。
発信する側も、受け取る側も、多様な意見や表現がおおらかに、冷静に語られる議論生成の環境の重要性にもっと気づいた方がよさそう。コミニュケーションの好みも多様化していますが、どうも没交渉的に棲み分けられていて、生産的な交じり合いが起きていないような気がしますが。