大人になることは物事への適切な判断や決定が下せるようになることだとも言えるだろう。それが発達するのだとしたら、大人もずっと「こども」なのかも知れません。(という「こども基本法の話ではなくて)選択することもある種のスキルであるなら、拙い段階から洗練されていくレベルまであるかも知れません。もちろん何かをさっさと選べることがいいのではありません。イヤイヤ期の子どもを見ていると、大人がどの選択肢を示してもうまくいかないという光景がよくあります。
今週5日のセミナーで、子どもは小さいうちから選ぶということをやっていくと、色々考えた上で自分で決めることができるようになるのではないか、ということが話題になりました。ランドセルのメーカーが子どもに調査をしたそうです。その色に決めたのはどうしてか?すると多くの子どもが本当に自分の好きな色で選んだのではなく、親がそれを望んでいたから、と答えたというのです。確かに最近のランドセル選びは「祖父母からのプレゼント」になっていることが多いそうで、子どもなりの配慮、忖度、遠慮という気遣い?が働いているのでしょう。それも納得してぎれば立派な選択なんでしょう。気に入らない色だったのに、我慢してそれにした、ということでなければいいのですが。
研修会では、どっちを選ぼうがあまり影響のないようなことも、小さいうちから選ぶようにしている事例が色々紹介されました。ジャム付きのパンをあまり食べないことがあって、ジャム付きとただのパンのどっち?と変えたら1歳児が躊躇なく選んでいく様子の動画がありました。面白いことに、どっちもジャム付きなのに「こっちのジャム付きにする、こっちのにする」と聞くと、子どもは選ぶんですね。「選ぶ」という行為を好むようなのです。やっていること、手に入れることは同じものなのに。シーナ・アイエンガーの本『選択の科学』にも、その事例が出ています。自分で決めた、選んだということ自体が重要だと。そして自分で決めるということは生得的なことじゃないか、と。
あるいは何かを「決める」というとき、大抵はそう白黒はっきりしたものではなく、積極的な肯定から消極的妥協まで、その幅は色々ありそうです。選ぶための情報が足りない、選択肢がない、我慢できない、恋に落ちた・・・まあ、色々です。でもその選択がずっと後々まで影響を与える場合もあります。昔、文部省時代ですが、キャリア教育や職業選択に関して「中学の時に将来なりたい職業が何回か変わるくらいでないと、それを調べたり学んだりしたことにならないでしょう」と担当課長Tさんから聞いたことを思い出しました。今はAIの時代。もっと違う<選択力>が必要かも知れません。科学としてその概要を知っておくといいと思うのですが。
しかも主体性の文化差ということも絡みそうです。選ぶのが「私」なのか、それとも「他者」や「集団」なのか。アイエンガーさんは、その本の中で、京都で砂糖入りのお茶を頼んだら丁寧に断られたというエピソードを披露しています。諦めてコーヒーを頼んだそうですが。自由な選択が許される幅が国や文化で違います。
それがアジア的と言っていいのかどうかわかりませんが、「他の人がしているかそうする」というのはジョークのネタにもなっているくらいですから個人主義の文化に比べると、個の弱い「あいまいな日本人」だったりするのでしょう。昨日の夜、ニューヨークなど海外で長く働いている方と夕食が一緒だったのですが、この「個人の押し出し具合の差」の話になりました。文化や背景との調和や、周りの空気を重んじて、自分の判断や意見や言わない、あっても一歩引くという感じが明らかにマイナスになるケースを色々教えてくれました。親や周りに合わせる選択や適応は、幼児後半あたりには影響を受けている気もします。
文化の差だとしたら、それ自体はいい悪いの話ではなく、そう自覚して対応していくとになりますが、子どもが小さい頃から「じゃあ、どうしようか?」と一緒に選択場面を考えてあげたり、一旦自分で「どう思う?」「いる?いらない?」とか、相手に聞いてから「やってあげる」ことや、子ども自身が「考える」プロセスを大切にしてあげるのは大事な気がします。それも子どもは頭だけで考えないでしょうから、手も体を動きながら、やってみながら後戻ったり、そうじゃないと気付いたりしながら。
子どもが選択するように見える時、昨日の日記にも付け加えましたが、選べない、選びたくない、あるいはどうしようと困ると言ったことが往々にしてあります。また、選択場面に見えないような、何か新しい世界へ一歩足を踏み入れていくときのように、どうしようかなあ、とちょっと逡巡して決めかねているような状態から、ちょっとやってみようと始めるとき、ある種の試行錯誤が起きているのですが、私が尊敬する先生が、それをこんなふうに表現してくださいました。
「何かを選んでいるように見えるとき、どういう意味で選択なのか。しばしば根拠がなんとなくで、選択肢もなんとなくで、衝動とも見えて、そのやってみて後から考えるというのが試行錯誤なのではないでしょうか。いいこと思いついた、というのは、具体的にこれからするアイディアが浮かんだわけですが、それもおそらくぼんやり何か面白くできないかなと思いつつ、試すことをイメージとして思いつく。で、やってみる。」
主体性や選択などの「ビッグワード」で語ることで終わらせず、このような場面をつぶさに拾いながら、子どもの姿から実際にどんな経験が起きているのか、そこの意味を探るようにしたいと思いました。