昨日25日の土曜日の日誌には、遊んでいる様子と掃除を手伝っている様子が記録されていました。写真は金曜日の公園です。
・・・
SくんとRくんは、2人で一緒に遊び過ごしていることがほとんどであった。制作ゾーンに長くいて、折り紙や画用紙でポケモンのごっこに必要な物を園欄で作っていた。AくんとHくんは3階フロアーを自由に遊んだ後、ごっこゾーンが居心地が良くなって2人でお医者さんごっこを繰り広げていた。 Yさんは、M先生がお気に入りで傍にいる事も多かったが、部屋の清掃の手伝いでは、モップを率先して行っていた。ごっこよりも、リアルな手伝いを好んでいるようであった。
・・・
生活と遊びの行ったり来たり。その2つのことのように分けてみることを最近疑っているのですが、それでもやはり遊びというものが、くっきりと際立って存在しているように思えて仕方がありません。
ただ、その二つに分類されてしまう前に常に活動というものが、それは「生きている」と言うことなのですが、そのなかに潜む多様なかかわりのシステムが、シームレスに「柔軟性」にとみながら機能しているのでしょう。
遊びを実社会で役立つための練習とみる見方があるのですが、本当でしょうか? 遊びもまた、人間の進化の中で生まれたものでしょう。もしそうなら、遊ぶ動物の方が遊ばない動物よりも、自然選択によって未来のとってよい活動が選び抜かれたということになるのですが、そんなこともあるのでしょうか?
そういう目的論的な見た方よりも、生きるために必要なことをやっていると、生まれたものが、その環境の違いとして何かの副次的な効果を生んでいるもかもすれません。もし将来の準備だというのなら、社会が変わって将来に必要なことが変わっても、変わらない何かのために役立っているとしたら、その変わらないものは何で、それと遊びがどう関わっているのかを知りたくなります。