(園だより1月号巻頭言より)
「自分の意思をしっかりともち、自分の気持ちをはっきりと伝える姿がさらに増えてきた。もっと遊びたい・今はやりたくないなど、言葉や仕草で表現することが一段と増え、いやいやも出てきているが、子どもとの対話を大切にして、思いを受け止めながら大人の思いも伝え、一番いい方法を考えたり、折り合いをつけていけるように関わっていきたい。」
これは12月の保育会議で報告されたちっち組(0歳児)の、最近の子どもの姿です。ここに見られるように、乳児の自立性と社会性・共感性がこの時期から大きな経験になっていることがわかります。自分を主張することと、他者との関係の中でその折り合いを見出していくこと。
子どもの主体と大人の主体の間に、相互の共感性を基軸にしながら、自分の気持ちや思いを伝えて受け止めてもらいながらも、その一方でお友達や先生から抑制や我慢を求めれることに対して、自分でその先をどうするか、自分自身をコントロールしていく実行機能の働きが育つような経験の積み重ねが起きています。
ここに自立心と協同性の根っこの部分が経験されていっている、と言っていいのだろうと思います。そのプロセスがどうなっているのか、さらに分析的に分け入ってみることもできます。その時に、赤ちゃんを「有能な赤ちゃん」とみるとしたら、どのあたりがそうだと思えばいいのでしょうか? ちっち組と言っても、もうこの12月末の時期の0歳児クラスは、最も月齢の低い子どもでも、当園の場合は2月生まれのRちゃんが10ヶ月です。ちょうど、9ヶ月革命が起きている時期です。
一方で、高月齢の5月生まれの男子が2人いて、彼らは1歳7ヶ月(19ヶ月)です。1歳半を過ぎれば、他者の意図を察した上での模倣、つまり他者の目的意識を理解した上で、他者がやっていることを自分もやろうとしています。お友達や大人がやっていることをそのまま真似することもありますが、どんな意図や目的でその人がそれをしているのかを察して、その目標を実現させるために、自分なりの方法でやり始めているかもしれません。
他者の意図やつもりを推理する力は、その同じ状況にいれば思いつきやすいでしょう。なので保育者は少し年齢の異なる子どもたち同士がやり始めることをそっと見守り、観察し、そこに起きていることにあまり干渉しないように配慮しています。そこで冒頭の担任の心配りをもう一度読んでみましょう。そこには「子どもとの対話を大切にして」ということがはっきりと意識されています。
これは子ども自身が折り合いをつける社会性を獲得していく過程において、大人のいうことを聞く子どもにしようとしているわけではなくて、お互いに「一番いい方法」を探していこうね、という民主的な手続きに似た対話をここで繰り広げたい、そうなればいいな、と願っているのです。まずは「子どもにとってどうか」ということが先にあって、その上で「じゃあ、これはどう?」という応答性になり、子どもの方はそれにまた応答するという対話が重ねられることになっていきます。
それくらいのことを、すでにこの子たちはやっています。自分の中での気持ちと付き合わせて、喜んで受け入れたり、あるいは渋々受け入れたり、反対に強く反発したり、怒ったり、泣いてせがんだり、中にはそれが効果があると覚えた方法を繰り返す出してくる場合もあるでしょう。無視したり、逃げたり、知らないふりをしたり、まるでさっきまでのこだわりが嘘のようになかったことになっていたり・・・。それなりの折衷案の数々の変奏曲だか変化球だかも、また楽しいものであって、そういうあたりにも個性が表れています。
これはもちろん乳児に限りません。幼児にも、あるいは私たち大人も大なり小なり、身近な家庭や地域の中でも、あるいは国際社会でも、そしてインターネットの中でも、悲喜交々、丁々発止のどんな対繰り広げられています。話が繰り広げられるのか、やりたいことや相手や気分や状況で変わってくるので一概にも言えませんが、それでもその全体を包み込むようなおおらかさを保って、ときどきを刻んていきたいと思います。