子どもの遊びは世界の可能性を開く扉である。無藤先生から教わっていることですが、そんな考え方を、子どもの姿から感じるようになりました。経験というのは世界との出会いなんだ、遊びがその経験になっていくんだ、それは面白そう、楽しそう、それなになに?みたいなことがきっかけになっていく。その経験の連なりを物語のように語れるとしたら、主人公の子どもの脇役は、環境の中からその子どもに呼びかけているものたちかもしれません。主人公がそれに応えて「そうだ、こうなったらいいな」という小さなゴールが現れてきて、そこに辿り着くために、脇役たちも応援しだします。みんなアクターなんですね。
主人公からすると、気づいたり、できたり、考えたり、試したり、工夫したり、表現したりしながら物語は進んでいきます。脇役からすると、合いの手を入れたり、こっちだよと誘導したり、壁になって立ち塞がったり「協力者があそこにいるよ」と教えてあげたり。大抵は知らんぷりしているのかもしれませんが・・・。物語の描き方は色々ありそうです。それでも、ゴールに向かって制御していくのは主人公の子どもですから、そこに自己コントロールの成長が見られます。どんどんそれが上手くなっていく。実行機能が発達していくように見えます。それを確かなものにしていくことが「自己発揮」としての子どもの人権を保障していくとになっていくのでしょう。そのように成長していく中に、私たちは子どもが主体的に何かをしている姿を見出して嬉しくなるのです。
もう一つ、何が嬉しいのかというと、子どもがそうなっていくこともそうですが、実はその姿に刺激を受けて、私たち大人も子どもが開こうとする世界に<招待されている>ことに気づくことがあります。昨日のダンスの姿を思い出してください。私は「怪獣の花唄」なんて全く知りませんでした。「おお、そこに面白さを感じるんだ!」とか「そこがいいのね!」や「ああ、そうしたいんだね!」「なになに、どうしたいの?」などと、子どもが不明瞭なものから明確なものまで、いろんなものやコトとの出会い、そのエンカウンターの「入り口」や「真っ最中」や「出口探し」に遭遇していることに、私たち大人も巻き込まれて、ある種の学びが起き始めているように思えます。
そうなってくると、私の「子ども理解」という理解の仕方が狭かったかもしれないと反省します。その定義にもう少し、相互的、動的な要素を加えたい。養成課程のように巨視的にみれば、子どもを対象として捉える大きな枠組みは仕方ないにしても、実際の活動を微視的に見ると、こちらがあたかも変化を受けない地点にいて、文字通り子どもをオブジェクト化してしまうことは到底無理で、主体同士の相互補完的で動的で流動的な営みと捉えたくなってきます。
社会が大きく変化しています。その変化の先を見通すことが大事な時代になってきました。その先の世界で必要になることを出会わせてあげたいのですが、それは個別テーマの内容というよりも、どんな内容であっても通用するコンピテンスになってくるらしいので、なおさら「遊び」を大切にしたいのです。