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園長の日記

資質・能力をもっと私たちの身近なものへ

2024/03/11

今日は午前中にオンラインライブで国の審議会を視聴し、夕方は第三者評価の関係者とオフラインで会議をもちました。これからの保育や教育をめぐって、真剣な議論をしている空気に触れたり、気になる「論点」や「見え方」に出合うと、自分がこれまで慣れ親しんできた世界の中に、知らない道の入り口が立ち現れてくる感覚がして、刺激や示唆をもらいます。

「そうだった。そのことがこれにつながるんだ!」とか、という「通路」が見つかったり、これまでよく考えたことがないようなことを知り、ちゃんと知りたい、理解したいと思います。保育のことなのに、なぜ保育の仕事をしている現場にいながら、会議やミーティングで語られていることを考え続けることができないんだろう。いったん自分の中に理解して思い出せることなら、実践のなかで使いながら考えることができるはずなのですが、そこまで理解できていないことがよくわかります。何ごとも、やはり、まずはそこからなのです。

この1か月ほど、私は次のフレーズを何度も何度も頭の中で繰り返しています「資質・能力とは、一種の行為における総合的な動きであり、勢いであり、絶えず伸びていく運動であり、たえざる関わりと変化によって変容する過程である」。このことが、目のまえで起きている子どもの姿として、だんだん見えてくるようになるから不思議です。

何度も振り返ってみて初めて、自分の考えになっていきます。目のまえに子どもがいて、事実はそこで起きているのに、その事態の作用や意味など見えていないかぎり、大事なことにたどり着けないかも。

プロセス志向である幼児教育の「資質・能力」と言うのは、平たく言うと「感じたり、気づいたりすること」そして「考えたり工夫したりすること」、そして「情意ともに協同性を発揮すること」。そういうことが起きるべきして起きるということを目指します。

私たちが使いこなす必要のある七つ道具の使い勝手がどうなのか、使いこなしてみて初めて「もっとこうしたらどうか」が出てくるのでしょう。

私の提案は、事実を概念で分析してつなぐときに意味が生まれるようになっているとしたら、そうしないでジェームスや西田幾多郎が述べたように「多即一」として子どもの姿をそのままにとらえたらよろしいのではないか。つぎの文章を子どもの遊ぶ姿になぞらえて読んでみると、その意味が分かってもらえるのではないだろうか?

「知覚と概念の重要な相違点は、知覚が連続的で概念が不連続的だということである。(中略)知覚の流れはそれだけでは何ものをも意味しない。それはただ存在しているだけである。近くの流れをいかに細かく分断してみても、それは常にmuch- at- once(多即一)であり、概念作用によって、そこから無数の側面や特徴を選び出し、分離し、そこに意味を与えることができる。(中略)知覚の流れを分断する操作は、全く概念上の操作に他ならない。もし、いまただちに概念的な見方をすっかり捨て去って、むき出しの感覚的生活に首尾よく逆戻りすることができるならば、<百花繚乱のなかを昆虫がぶんぶん飛び交っている状態を大規模にした混乱状態>と誰かが形容したような状態があらわれるだろう。このmuch- at- once(多即一)においては、矛盾はなく、すべてのものが生き生きとしていて、しかも明瞭な姿で存在する」

どうでしょうか。子どもの姿はこのように日常的にはとらえているということでしょう。そこに創発的に生まれる学びの契機や相互性を見出すために、一から多を導きだす、一旦は「資質・能力」の物差しで分析し、概念化してみる、というというわけでしょう。

「一」中にどんな「多」を見出すのか、そこを行ったり来たり。私たちは何かを見て理解するときに、そういうことをしているのでしょうね。

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