大人はつい言葉で思考してしまいますが、子どもを見ていると、言葉や大人の考える思考ではない方法で、世界と対面しているように感じることがあります。
ある哲学者(パース)は「思考は信念を形成するためにある」と言います。信念とは疑念の反対で、問いに対する答えです。問うことと答えること、ここに思考の役割があるというのです。
さらに信念の形成というのは、いわば私たちが考えている常識のようなもので、改めて意識したり説明されることもなく、信じてやっていることになります。ですから、改めて「どうして?」と問うと、途端にはてな?となることもあるのです。
疑念とか問い、というと難しく感じますが「おもしろい」「ふしぎだね」という経験を思い浮かべてみましょう。それを経験してしまうということに、子どもの人間としての尊厳の起点があるようにも思えます。
その感じ方や、その子特有のものに違いなく、そこから世界に参入していくあり方は、決して同一のものではないからです。私たちが理念としての自由や人権を大事にしようという「考え」を持つなら、この子どもの感じるかけがえのない唯一性と、そこから世界ときり結んでいく出会いの表し方を大切にしたいものです。
それをここバラバラではなくて、子ども同士の認め合いということも含めた他者との関わり中で考えていきたいと思います。