ビッグワードを使うと微細な子どもの育ちを見損なうのではないか。このところ、この警戒感が保育を描くときの、私の通低音になっています。保育の目標や理念を語るときに自己決定、選択、参画、自己実現、愛着、信頼感などのキーワードを使うことがあります。でもそれを使うことは、そうなってほしい、そうでありたいということであって、実際にそうであるかは別問題でしょう。例えば最近ブームになっている主体性にしても、それを使えば何にでも当てはまるような言葉遣いにならないようにしたいと思っています。
今日の保育を振り返っていたら、先ほど主任とこんな話になりました。先生たちはそんな言葉を使うことはまずありません。きっとある意味で「そんな大それたこと!」と思うに違いないのです。保育を語るときに、子どもの姿をある概念でまとめたものをそのまま使うということはあまりないのです。その言葉で言い切ってしまうと、それは逆に何も言っていないように思えます。
そいえば、と思い出しました。22日にある学生さんが卒論のテーマとして睡眠の選択について見学に来られました。保育園、午睡、選択というキーワードでググると、うちの保育園がヒットしたそうです。そして、実情を説明すると「その日ごとに寝る寝ないを選ぶような選択ではないのですね」と理解してもらえ、ホッとしたのですが、逆に午睡は選択ですということで、こんな誤解を生んでしまうのだと反省しました。
一斉に同じことをさせることではなく、個別にその子に合った過ごし方や遊び方、寝ることも食べることもその子にあったようにすること、その子らしく過ごせるという趣旨なのですが、それを個人の「選択」というフレーズでまとめると、このような誤った理解を促してしまったようです。実際のところ、何にしても結果的には選択していると言えてしまいます。でもその内実は千差万別です。どのように最適なのか、あるいは個性化されているのか、と言ったあたり大事なのですよね。