写真は散歩から帰ってきたとき。1歳児クラスの女の子が、椅子に座って自分の靴を脱ぎ、靴下もスポーンと逃げた瞬間の笑顔です。こういう瞬間に私は幸せを感じてしまいます。個人的な考えかもしれませんが。
ちょっとだけ真面目な話。
どうして私がいて、子どもがいて、保育があるのか。子育てをしている親なら誰でも思い当たる問いでしょう。私もそうでした。この3つの問いは全部クリアな答えがないのですが、それでも実際に存在し、過去からのつながりの中にあって今現在も動いている続いているもので、そのストリームの中に、私も子どもの保育者も巻き込まれています。その個体としての時々のそれぞれの「私」も「子ども」も「保育者」も個別の存在ですが、大きなストリームの中で現れたり消えてたりして、ずっと何かバトンを受け取り、また受け渡しています。
そのストリームは自然ともいのちとも言っていいようなものなのですが、ここの「私」や「子ども」や「保育者」などの個人にとっては「人生」です。とても不思議なことに、植物や動物と違って、生まれて死ぬまでの間、ただ何も考えない存在ではなく、意図的に何かをよりよくすることができる可能性をもった存在として、私たちは存在します。私にとっては、このことはどう考えても奇跡的なことに思えます。
さらに人類の歴史を振り返ってみると、それぞれの個別の存在が、植物や動物と違って、かけがえのない個、取り替えのきかない個人という重みがますます大きくなっていくストリームの中にありそうです。この流れはますます大きくなっているように思えるので、それに反するものは紆余曲折は経ながらも淘汰されていくことでしょう。その悲劇的な状況から少しでも免れていると思えるなら、そして先に生まれたものたちがそのことに気づいたら、個の人権や尊厳がしっかりと守られて発揮できるように、努める義務を感じます。その延長に保育があります。
そして子どもが生きている瞬間の連続の中に、過去の一切が流れ込んでいると思うと、先に生まれてきた私たち大人が子どもたちに渡していきたいものが何なのか、それをちゃんとしたいという思いになります。それができる場は、今という現在しか常になく、そこに私たちも集中できる力を整えておくようにしようと思うのでした。