今朝、2歳児クラスの子ども二人と始まったの遊びを見ていました。2人は防災づきんを被って「火事だ〜地震だ〜」と走って行ってカーテンの裏や、机の下に隠れたり、靴を取ってきて避難ごっこをして、お家に帰ってきて、ジュースを飲んで「はあ、疲れた〜」と笑い合っていたのです。
遊びの幅のようなものがあるなら、その片方にはこんな姿があります。だんだん無秩序になっていくような騒ぎ、即興的に何かを始める嬉々とした躍動感。あ、いいこと考えた!と言いながら始まるいたずら。そのようは無邪気な気晴らしやエネルギーの発散のようなことです。
こっちがあるから、その対極になるのかもしれない姿が、何かに真剣に取り組み、何かを作り上げたり、ルールのある遊びで参加者にその決まりを厳格に守らせようとしたりします。遊びであっても成し遂げたい目的のために努力して工夫しています。こうなったから、今度はどうなるだろうと飽くなき探究が始まることもあります。
この両方の間を行ったり来たりして過ごしているのが子どもたちです。ともすると前者の一見、混沌としたような姿を否定的に捉えていないだろうか?ロジェ・カイヨワが「パイディア」と名付けた遊びの傾向です。そこに自由な躍動するものがあり、それが秩序づけられていく方にばかり気を使っていると、生と環境が自ずと創り出しているものに気づかず、せっかくの環境構成の機会を見逃してしまうのかもしれません。
もしかすると遊びが学びや探究につながると言いながら、このパイディアの領域を無くそうとしてしまうと、何か遊びの深みがない、表層的なものになってしまいそうで気をつけたいと思うのです。