人間の脳を含む身体は昔からあまり変わっていないのに、これだけ多くの情報が向こうからやってくるようになると、というよりも、もしかするとこちらからアクセスするようになると、気づかないうちに情報中毒のようになっていて、物の過剰消費と同じようにあまり必要でもないのにそれに接すること自体が目的化して、副作用のようなことがきっと起きているのだろうと思えて仕方がありません。
昔からテレビは見すぎるなとか、本は読みすぎるな、みたいなことが言われてきた時代があったのですが、私なりにそういうのをどう理解してきたかというと、ようするに振り回されないように自分に適切に作用させるというようなこととして理解しています。いったい自分はどうしたかったんだっけ?という肝心かなめのテーマを忘れて、目の前にやってくる事象をおっかけたり、食べたり寝たり必要な最低限欠かせない生理的習慣のはざまに生じる意識的な時間を、受動的な情報アクセスタイムになっていたりするのかもしれません。
いったいそこで何か自分にとっての主体的な自己形成なり社会貢献なり創造的な営みに近いものが少しはあってもいいだろうけれど、その情報空間の扉を開けてしまうと、自己を見失ってしまう自分に気づくことすら難しい情報消費社会の渦に巻き込まれてしまうリスクがあるように思えて仕方がありません。面白く、うまくできてますからね。
これだけ多くの人が、寄ってたかってPVを稼ぐような姿を眺めていると、昔は祭事の夜の道路で茶碗やバナナを面白い口上で売りさばいていた芸を思い出してしまいます(知らない方が多いと思いますが、要するにフーテンの寅さんの世界)。その点、保育園の世界は、つけっぱなしのテレビもBGM音楽もなし、そういうデジタルネット社会からはある程度、隔離されている(意図的に使う場合もありますが)とは思っているのですが、その分だけですが、それぞれの子どものもっているであろう本来の身体性が発揮されやすい環境にしやすいはず、という感じはします。
しかし、そんな環境が果たしてほんとうに過去にあったのか?というときっとそれもなかったので(幼稚園なんて昔はなかったわけですから、学校も昔はなかったわけですから)改めて何がいいのかを考えながら、試行錯誤しながら工夫し続けていくしかないのでしょう。人間の遠い過去から続いている知性と本能の長い旅は、それが知性が主導権をとりながら、それがつくり出す道具のあれこれ(文明社会)がかえって難題を創り出している(気候温暖化など)という面もあるように、情報にも両面がありそうなので、そのマイナスの側面に振り回されない落ち着いた生活で子どもたちを守ってあげたいものです。