小さい子どもが何に不安を持つのか、その不安感を大人は忘れています。
(写真は10月10日のものです)
私は自分の記憶がある4歳ごろから小学校以降の子どもの頃を思い出すと、かなり臆病で内向的な性格だったことに自分で驚くことがあります。
自分ごとで恐縮ですが、私は小さい頃から親の包装紙材店の仕事場に出入りしていて、子守り代わりに仕事の配達でつかうトラック「ハイエース」の真ん中に乗せてもらって、いろいろなところへ連れていってもらっていました。
そのこと自体は楽しかったのですが、大人になると「こんな大きなトラックを運転するようになるかもしれない」とか、また「もしそれを自分が運転しなければならなくなるかも」とかを想像して、怖くて仕方なかった気持ちがあったことを思い出すのです。矛盾しているように思うのは、大きなった大人の見方です。
運転できるようになることの喜びよりも、「あんなものを動かすなんて、よくできるものだ」という感じと合わせて、自分がそれをやると思うと「空恐ろしい」という感じの方が強かったのです。
その感覚は、結構大きくなってもあった気がします。私は二十歳をすぎて自転車に乗れたのですが、私が住んでいた町では自転車に乗ること自体が全くなかったのです。子どもの頃は「あんなものにどうして転ばずに乗れるのか」と、不思議でしょうがありませんでした、というよりも乗れるようになりたいとも思いませんでした。
人前に出ると、真っ赤になっていました。恥ずかしさが何よりも先立つ性格でした。それでも大人になると図々しさがないとできないような職業をこなすようにもなるのですから、性格というのはある程度、変容するようです。でも基本的なところは、あまり変わらないように思えます。
どうして子どもが躊躇したり、眺めるだけだったりすのか? そんな子どもの心理への想像ができなくなっているのが大人なんでしょう。このことは、誰でも持っていたはずなのですが、そのとき感じていた感情が成長というものによって、他の感情に移り変わっていくものなのでしょうか。
記憶として残るものと消えたようにみえるもの。その違いがあるように見えます。変化した前の状態がその後の感情に比べてどちらかというと否定される傾向のものだから、(臆病で怖気付く性格から、 大胆で果敢な性格になるというような)消去されてしまうのでしょうか?
いずれにしても、大人が子どもの感情について共感的に同じ感情を思い起こすことができなくても、そういうことがあるという状態を認識することはでき、そのことを思い巡らす想像力を失わないでいてあげたいと思うのでした。