<巻頭言12月号より>
遊びの中に学びを読み取りすぎる居心地のわるさ
先生の研修報告から。研修のテーマは「保育を支える思想と哲学」というもので、研修報告の要点には「ヴィゴツキーの遊び論の限界も捉えながら「あそび」のなかに学びを組み込もうとする保育の居心地の悪さのようなところについても考えていく」とあります。この居心地の悪さの例として、講義のなかで挙がっていたのが「泥団子転がし」のエピソード。傾斜に転がして遊んでいた子どもたちに「なんで速いだろう?」「なんで遅いと思う?」と投げかけ、何かに気付かせようとする保育者がいたという話だそうです。
研修を受けた先生は、これについて<子どもを発達的な視点で捉えてみよう、という癖がついている保育者にとっては、ついやってしまいがちな行動かも、とも思います。ただ、あそびの楽しさや面白さは、大人の意図とは別のところにある、というところは、ほんとうにその通りだと感じると同時に、大人はもっと、ただただ楽しい!おもしろい!という情動の面を大切にしてみる視点も必要なのかなと感じました。>と書いて、自身の小学校のときの遊びの実感を振り返って考察しています。(詳しくはHP「園長の日記」をご覧ください)
<その中で、子どもたちは(繰り返し遊ぶ中に)微妙な変化や違いを感じ取ってみたり、それをプラッシュアップしてみようとしたりしているのではないかなと思えます。発達的な意図や教育的な意図を持たせようとしてその行動を見てしまうと、大人の視点からば『ただ同じことを繰り返しているだけで変化がないよね』という見方になってしまうのかもしません。でも、子どもにとってはそれは大切な探求の時間であり、面白い!たのしい!と思えるから何度もやってみる、という姿でもあるのだと感じます。>
<大人は、子どもの興味や関心が引き出されていくような環境を用意してみるけれど、そこに子どもたちがどう関わって、どう遊んでいくか、は子ども自身が決めることなのだと思います。少しきっかけを作ったり、ヒントを作ったり、より良い場所へ行ってみたり…・・という環境構成は保育者の役割だと思いますが、目の前の子どものあそびに、必要以上に何か意味や意図を持たせようとしすぎないことも大切だと感じました。子どものあそびのありのままの楽しみや面白さを、一緒に感じ取り、そっと見守ってみること、そして大人自身が楽しむことを忘れずに過ごしていきたいと思います。>