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園長の日記

「つろいだ雰囲気」と「ハレの気分」が混ざり合う

2024/12/04

事務所の印刷機から、セリフの書かれた台本が印刷されてきます。今週末のお楽しみ会の準備をしている先生から台本をもらって読みながら、先日やった1回目のリハーサルを思い出します。劇遊びは普段やっている遊びがそれなのですが、さらに行事にそれを位置付けたとたん、なにか別物になってしまう感覚があって、それを別物にしないようにしたいと思います。そのポイントの一つが、自分たち始まった遊びが、見てもらう遊びに変わっていくということがあります。見てもらいたい!と俄然張り切って楽しみにしている子どももいれば、当日にはまた「そうならない」場合もあります。

生活というものは、基本は「自然にそうなる」という状態がベースになります。緊張していたり、いつも頑張っているという状態では、生きていけません。基本はやりたいからやっている。何もしたくない時はしない。いずれも「そうなるようになっている」という状態です。大人だってそうでしょう。基本はそんな感じのはずです。そこに時には努力や挑戦や歓喜や落胆などが入り込んできます。「時には」の頻度は人によってかなり差がありそうですけれど。

自然とそうなるようになる状態というのは、例えば身体的にも精神的にも、だらっとして気が抜けている状態から、元気はつらつと、活発に遊び込んでいる状態まで、周期的に変化していきます。そこにはリズムがあります。そういう変化を含めて「自然にそうなる」という状態が毎日の繰り返される生活リズムです。

そこに行事という、普段できないことをやってみようという、いわばハレの活動がやってきます。これは数ヶ月ぐらいの、ちょっと長い周期でやってくる感じです。今週末の、幼児のお楽しみ会もそうですが、子どもたちといると、それにむけて、ウキウキとした気持ちが伝わってきます。それも「自然にそうなる」の一部です。面白いことが始まるという予感が、通低音のように聞こえてくる時があるのです。

大学から音楽の先生がいらして、いろんな話をしたこともあり、このリズムのような、脈を打つ生活リズムには音楽性があって、聞こえない音楽が生活を奏でているのかもしれないと思いました。生活の中にある躍動の周波数が、聞こえない音を奏でている。そういう想像も面白い。リハーサルというのは、前奏曲がところどころなっていて、何か向こうからやってくる感覚のなかで、そこに向けての今も何かがなっているのかもしれません。

自然にそうなるという状態は、くつろいだ状態から何かが自ずと動き出すものなので、行事というのは、不思議なもので「くつろいだ状態」でありながら、「ハレの気分」も同居してくるのです。一人一人の子どもの胸のうちで、どんな前奏曲がなっているのでしょう。聞こえるものなら聞いてみたいものです。もし人間が作曲の表現器官を与えられていたら、きっと奏でてくれるはずです。お楽しみ会の前奏曲。すでになり始めている音楽。

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