今日は不思議なことに、数をかぞえる姿が私に飛び込んでくるような日でした。毎日朝ラウンドしているのですが、7月で5歳になった年中の男の子が、RaQで作った輪が繋がったものをみせてくれました。仲の良い同じ位の友達と2人で作ったものです。「わあ、長いのができたね」というと、何かこんなに沢山作ったんだということを自慢したいようなことを言って、私の前でかぞえはじめました。
こういうことは、よくあるのです。1、2、3、4・・(いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、ひち、はち・・)とずっと数えて、途中で指を差しているのがズレたり、跳んだり、だぶったりしながら、また正確さはイマイチなんですが、最後は63まで数えました。すこし数え慣れている子どもなら、にじゅういち、にじゅうに、とはいわずに「にーいち、「にーに」とやるのですが、律儀に「よんじゅうご、よんじゅうろく・・・」とやっていきます。
私は思わず「すごいね、63個も作ったんだ、よくつくったなあ」みたいなことを言っていました。本当は67個あったんですが。私が本当にすごいな、と感心したのは、「よくもこんなに同じものを作る根気があるなあ」ということと、「それきた〜、わざわざ数えるんだよね、それやりたいんだよね、そうだよね」ということでした。ちょっとよく見えるように、天井から下げてみました。
実は、1ヶ月ほどまえに、手作りのお手玉とつくろうということになって、数珠玉を手に入れたのですが、それを紙コップにいれて事務所のテーブルに置いていたら、年長の女子二人が、その中に入った数珠玉を数えたみたいで、数字が書かれた紙切れが置いてあったのです。453。
子どもたちには、何かと数えたがる時期があるようです。その意味合いについては、シェルマとかカミンスキーとか、シュテルンなどが唱えていることの概略を読んだことがあるのですが、私が感じるのは、その数えるという行為にみられる「あくなき姿」のようなものです。大体大人になったらめんどくさいと思ってしまうようなことだと思うのですが、子どもにとっては、何か新鮮なものらしいのです。
今日はもう一つこんなことありました。年長の男子一人と2時間ほど過ごしたのです。やったことは、あやとり、一円玉の浮かせ競争、逆さまにしてもこぼれない水、水に移る絵、コマ回し、かるた、将棋です。
年長なのでかなり高度なことができるのですが、一年玉が浮いている数が多いときが勝ちにしたとき、沈んだ一円玉の数に対して、1対1、2対1、3対1、4対1、4対2、5対2・・というふうにスポーツ競技でやるような点数の進行を、やりながらなにも見ずにどんどんやっていって、最後は31対19で勝ち、ということができるようになっていたのです。
途中で沈んだりするので、25対11が、24対12になったりするのですが、それも数えなおすこともなく、そうだという確信があるようです。全部で50枚なので最終的には数が合わずに、私が数えなおしたのですが。それは浮いている一円玉を順序よく数えることが難しいということで、大人でもそうでしょう。
物のはずみで始まったカウンティングですが、よく考えると、この子たちは今年、野球ごっこで試合をたくさんやってきていたのでした。またトランプやオセロゲームなどのゲームは何十種類と遊んでおり、数は知らず知らずのうちに、多い少ないとか勝ち負けとか、何かをはっきりさせるものとして、機能しているのでしょう。そのようにして、何かと数えたがるのは、そうすることが自分の中に世界を把握する一つの方法を手に入れているからでしょう。
小さいうちから指折り数えていた時期に始まり、たぶん数を数えていくと必ず最後に行きつき、さらにそれがどんどん増えていき、それでも自分でやって結論がでる出る手応え感があって、しかも他の人に「こうだ」と通用する感じが、確かな認識を得ていくことの予感になっているのでしょうか。
そういえば、今月初め3年生になった卒園児がそろばんで賞を取ったと、わざわざ私に見せに来てくれました。数を数えるスキルはこうして大人のそれを、越えてゆくのですね。
<ク 数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚>