年長のHちゃんが、「あのね、〜ちゃん(自分のこと)ね。・・・」と、やりたいことを、いろいろ話をしてくれます。そんなとき、話している内容もそうなのですが、これだけ私に話したいと思って、そうしていることに「ああ、子どもたちが生き生きしているなあ」と感じます。そういうこと、ありますよね。そういうとき、子どもって自由でいいなあ、と思うのです。
彼女のその話は、意味だけを追うと「こんどの実験や制作遊びでやってみたいこと」という話なのですが、途中でコーラがでてきたり、粘土が出てきたりして、自分で話しながら「あ、そうだ」と思いついたことを付け加えたり、話が別のことに飛んだり、つながったりして、そこに一つの新しい事態が生まれては変化していきます。
話されている内容や意味が変わっていくということもあるのですが、そこで想像しながら、ある新しい物語が生まれていくような、<話す><聞いてもらう>という行為事態が、意味も意味以前のことも含めて、そこに何か新しいことが生まれていっているという感じがして、「わあ、躍動している!」という生命力が伝わってくるのです。
年の初めのファイスブックで、無藤隆先生の「創発的なダイナミズムのある活動としての遊び」という文章の最後のほうに、こんな全体の要約がでてきます。これを読んで、私が感じたHちゃんの「生命」の躍動感は、私との対話が一つの波紋を作っていたのだなあということを思い浮かべます。
<・・・遊びは個としての生命性のあり方からの開始が他の個としての開始と混じり合い、偶発的な動きを孕みながら、世界の関係の再構成として進み、そこに置いて意図と意志とが事後的に構成されつつ、それが記憶としての蘇りが起こる中で、個としての主体的関わりが創発的に生まれるのである。>
抽象度の高い言葉ですが、保育(に限らず世界)で起きている事実がぎゅっと濃縮されて表現されています。ここでいう「個としての生命性のあり方」もまた、それ以前からのつながりの中での、仮の開始でしかないのでしょうから、私との間で生まれた対話もまた、生まれては消えていく創発的なものです。それでも、そこで事後的に構成された意図と意思から生まれた「今度の実験遊びのプラン」は、実際の活動で生かされていくことでしょう。