2人から3人の先生と、半日、あるいは1日じっくりと話し合う時間を設けています。昨年12月から始めて、今日14日で4回目です。これまでに9人との会話が終りました。面談ではありません、テーマのない深め合いの時間です。これだけゆっくりと話合う時間はなかなか取れないので、とても貴重な時間になっています。それぞれの先生たちが、何をどのように感じ、考えているのか、などが今まで以上に分かり合えます。とくに同僚のことを慮る話が多いのが特徴です。
メンバーによって語りあう話はバラバラなのですが、大きなカテゴリーでざっくり区分すると、ちょっと大袈裟ですが「私の人生と保育」につらなるような話があって、同時にまた「改めて、そもそも保育とは」を考えさせられるものが語られて、そして「当園の保育」について、という3つの焦点がありそうです。職員が結婚したり子どもが生まれたり、家族が変わるようなことを、職員も保護者も分かち合う生活が保育園の特徴かもしれません。
今日はその話し合いのなかで、ある先生から「保育を考える事は、子どもと同時に自分の人生を考えることと重なっている」というフレーズが飛び出してきました。こんなことは普段あまり口にはしないけれど、実際はそういうことが起きているのが保育だと思い当たるのです。話はうまく再現できませんが、例えば3つ目の当園の働き方を話し合っていた時は、何かをどう精選するかということになり、そうすると、何を残して何をやめるかという、そもそも保育の何を大切にして、何を省略するかという判断をめぐる話に展開し、そのために、それは「私たちがどう生きることが良いのか」とつながっていくこともあるのです。
これまでの話し合いのメモをみると、「子どもの主体性」の話は「大人の主体性」と関係し、子どもの「人権」は大人による子どもの「自己発揮の捉え方」になり、その具体的な話をしていたら「領域表現」のありようになり、また今日は「探究活動」の話になったのですが、それは「ものの素材」そのものの探究と、ゴールイメージある造形とは異なるという話になり、それは保育のあり方や大人の好奇心の持ち方の見直しが必要か?といったことになり・・・といったように、話題はそれぞれのメンバーの今の関心事に引き寄せられていきます。
これらは、似たようなテーマ見えながら、話の輪郭とストーリーはそれぞれの先生によって異なります。語り出されてくる内容について、他の人も付け加わってくるのですが、まるで「保育」を語りながら、きっとそれぞれの生き方を考える時間になっていただろう、そんな時間でした。この対話自体が、保育の土壌にあたるものを耕していることは間違いなく、どの会も「時間が足りなかった。またやりたい。もっと話したい」と言う気持ちが後を引くような時間でもありました。