藍の体験について書いた「見えている世界の向こう」というのは、決して「あの世」的なことではありません。この世のことですし、現実世界のことです。しかも感覚的なことで、超感覚的な話でもありません。色の違いへの気づきが洗練されていくという意味です。
口紅の色を選んだり、どのスカーフにしようかと品定めするときのような、あるいは指先で触って点字が読めるようになっていくようなことです。あくまでも、感覚がより細かな差異に気づけるようになっていくとういことです。
音の聞き分けにしても、匂いの違いや、味の違いもそうですね。そういう感覚や感性を磨いていくための経験とは、どんなことなんだろう? それが遊びのなかで自然とそうなっていくような遊びのあり方、探究なっていく遊びのあり方といったことです。それを考えるきっかけになるのが、藍染だろう。しかも、そのためには、よくある花や草でたくさん色水遊びをしたり、遊びの中で自然とその色の違いに気づく体験がいろいろあることが有効だろうことは、容易に想像がつきます。探究が洗練をうむような経験としての遊び。違いに気づき面白さや楽しさが起動して、より向こうの世界への侵入が深まっていくような体験です。