〈保育や教育の実践は、無数の要素が積み重なり、長い時間をかけて変化する。理論や助言は表層に過ぎず、現場の工夫が、本質的な変化を生む。一律の模倣は、硬直化を招くため、響き合いながら少しずつ前進することが肝要である。〉
私は1990年代の半ばから保育の現場に入り、約30年経とうとしていますが、本当に徐々に変わってきたんだと言うことを実感します。硬直化を防ぎながら響き合わせること。その例を挙げればキリがありませんが、ちょうど昨日、実習生と話をしていて、保育事例の考察が書けないと言う相談に応じていた時、そのやりとりの中にも〈ゆっくりと現実が変わっていく実例〉がありました。
実習生の彼女にとって、保育園で子供が過ごしているという、目の前で生起している世界から、何が見えてくるかは、彼女のそれまでの歴史やら、学びの履歴を含む個人的な事情があって、その上での、彼女の見え方というものがあり、見えにくさと言うものがあり、何をどう考えたらいいのかと言う困惑があります。
そこでのやりとりに、保育の理論や言説をそのまま言葉にしたものでは、通じないと言う場合もあって、彼女の立っている世界から共に歩んでいくような対話をいかに作り出すかと言うことを工夫しあいました。
彼女が書こうとしているエピソードが、印象的だったと言うので、何がどう印象的だったのかを一緒に考えたのですが、「このあたりから掘り進んでいったら、いいんじゃないか」と、良さそうな場所を探り当てるのは、私が彼女の世界に想像たくましく歩み寄っていくことが不可欠で、言葉づらの保育理論は、まだ遠くにあって、歯が立たないといった事は、経験者ならよくある話だろう、と。
そもそも、意味とはなんだろうかと言ったことや、印象的であると言うのは、どういうことなんだろうと言うところから語りあったのです。
冒頭の文章は、もっと長い文章を私が勝手に要約したものですが、その長いもとの中には、次のような文章もあり、実習生とのやりとりを思い出したのでした。
・・・ゆっくり日本中で無数のそれぞれの保育者と教師たちが苦闘していく先になにか開けるのかどうか。その苦闘がなされ、そこに響き合いがおこり、それを通して波及していく過程であり、そこにわずかに参加することが研修やら実践研究やら助言の役割なのである。・・・
ここに想定されている話は、国全体を動かされているような方の実感としての話なので、実習生との対話などは、象とアリほどの違いがあるのですが、趣旨を拡大解釈すれば、あい通ずる話なんだろうと思った次第です。
とにかく、毎日のほんのわずかな工夫や改善や共感が大きなタンカーを動かしていくのでしょう。もし一気に変えたいと思っている人が、そういうとは現実的なことではないと気づいても、だからこそ、地道にあきらめないで続けることがとても大切なのでしょう。