子どもの心の動きを大人が想像するとき、子どもと大人と世界という「ドーナツ型」をモデルにしがちだが、そうではない読み取り方があっていいとずっと感じてきた。子ども同士の世界は、その間に大人が入り込んでしまうと、その世界は別のものになってしまうと感じるときがよくあるからです。それはまるで素粒子のふるまいを描くジレンマに似ているので、量子的子ども像と私は読んでみたい。そんなことを言っている人はまだ誰もいないかもしれませんが、理学部出身の私としては、とても似ていると思うのです。
大人の世界でも人間関係というのは、ほぼ社会性といっていいわけですが、それはまさに様々なことが生起していて、そのドラマは無限にあるので、それをすべて描き切ることは原理的に不可能です。できることは観測できる世界のなかの代表的な切り取り方をコレクションしていくことしかできそうもありません。
大人が子ども同士の関係の中に入り込んでともに生きる感覚から子どもを「あらわそう」とすることはたくさん論じられていますが、そういう次元を超えて、もう少し俯瞰的なところから、子ども集団のもっている潜在的な生命力の動向を描いてみたいと思います。
量子的というのは、原子の周りをまわる電子を例に考えると、ほんとうは電子は確率的に存在するとしかいいようがないのが事実であって、電子は軌道をぐるぐる回っているわけではありません。ボーアモデルが軌道があるように想定したら波動でも粒子でもある電子のふるまいに計算して合致しているということにすぎません。そこにある確率で存在するとしかいいようのない存在の仕方をしているのです。
その量子力学が誕生してちょうど100年ですが、現実にさまざまな分野で使われいてます。子どもの個々の内面の変化を、保育者がその一瞬とらえたとしても、その前後で解釈した意味付けでしかなくて、現実はすでに過ぎ去り、別の動的な状態にあるに決まっています。子どものエピソードをいくら「それらしく」描いてもその「事実」は、別の意味付けが可能かもしれません。なぜなら子どもの姿を語り合い、多面的にとらえようということが推奨されていて、実際にそうしてみると、確かに、新たな見方に気づき合うことが多いからです。
そうすると、子どもの姿とはどこまで言っても仮説的な記述であって、「こうだ」と誰も確定できない確率的な動向ともいえるでしょう。ここまではよく言われていることと変わりはありません。
ところが「子ども集団」となると、途端に分析が難しくなります。実際に子ども集団の中に分け入ってその動向をつぶさに観察してみると、子ども同士の相互作用は実に複雑で、あいまいで、デリケートで、フライジャルな様相を呈しています。
それでも、まるで、つかの間の閃光のように意味がみえてくるのであって、それを観察者は「面白いことに気づいた」と、切り取って描くのです。まるで電子がある軌道にだけ存在するかのように説明するのに似ています。そのありようを量子的子ども像といってみたいのです。
まだ生煮えの着想なので、たくさんの事例を通じて考えてみたいと思います。集団行動のダイナミックスを感じるモデルが抽出できるかもしれません。