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園長の日記

音楽が模倣しているもの

2021/05/06

子どものやりたがることに、いつも、いつも模倣があるのですが、そのことはこの日記でも「散々」と言っていいくらい書き連ねてきた気がするのですが、それでも、次のような考えがあることを知ってびっくりしました。

「音楽がわれわれの存在に奥深い内部にきわめて強く働きかけるのは、音楽だけが他のあらゆる芸術とは異なって、世界の存在物のなんらかのイデアの模写ではなしに、意志それ自身の模写であるからに他ならない」

「他の芸術は影について語っているだけだが、音楽は本質について語っている」

とても納得のいく説明です。お絵かきやブロックやままごとや、パズルでもいいのですが、それらに見られる模倣(模写でもいいのですが)は、確かに何かの模写であるのに対して(だからこそ「ゾーン」という空間的な場も必要になるのかもしれませんが)音楽は、メロディそのものが直接、私たちを生かせている世界の意志を奏でているんだと思うと、他の遊びの体験との違いに納得できるのです。

わかりづらいかもしれないのは「意志」の模写という意味でしょう。「世界は私の表象である」と考えるショーペンハウエルは、その表象を生んでいるものが世界の意志だと考えているからです。(これでわかりやすくなるとも思えませんが・・「意志と表象としての世界」を読んでもらうしかないかもしれません・・)

ただ、ここでいう「音楽」とは、いまの音楽とはちょっと違っていると思います。彼が語っている音楽は、今でいうクラシックのことですから、歌詞はないと思ってください。作詞作曲というときの曲の方だけです。それが世界の意志の模倣だというのです。言葉が表象しているものは、また別にあるのだろうと思います。

<世界の意志>というのは、人によっては神だったり、宇宙原理だったりブラフマンだったりしますが、いずれにしても不思議なことに世界を動かしている根源的な何かです。それを音楽は直接に表象してくれているんだというのですから、実に面白いと思いませんか?

私たちがなぜ、こんなに音楽を愛おしく感じるのか。私たちの命を生かしているものと、いわば出会っているようなものなのかもしれません。歌を歌いたい! 楽器を弾きたい! という衝動の源もまた、<私は今を生きたい!>という欲求の表れなのかもしれません。

明日から保育再開です

2021/05/05

二十四節気では「立夏」の今日5日の「こどもの日」はGWの最後の日でしたが、この連休、いかがお過ごしでしたでしょうか。緊急事態宣言の最中なので身近なところで過ごされた方が多かったと思いますが、今日のニュースを見ていると緊急事態宣言の延長は5月末までになりそうですね。「ロックダウン中でも蔓延したのがロンドンでした」。イギリスで治療にあたった医師がテレビで警鐘を鳴らしています。明日から保育再開です。インドからの変異株は今度こそ防いでもらいたいものです。水際対策には私たち市民は協力のしようがありません。国しかできないことは、国にしっかりやってもらうしかないのですから。

日本保育学会で実習について議論へ

2021/05/04

51516日に富山市で日本保育学会が開かれるのですが、今年はリモートによる開催になり、自主シンポジウムや口頭発表などを事前発表資料として見ることができます。この2年ほど私は参加していないのですが、それまでは毎年、保育実習のあり方についての話題提供で参加していました。保育園は保育士を養成する役割を担っており、実習はその養成課程の核とされています。学会が問題だと考えていることの一つに、実習で学生に「クラスをまとめる力」を求めてしまう保育現場の古い体質です。国も養成校も子ども主体の保育を推進したいのですが、なぜか実態は学生に保育者主体の一斉指導力を期待してしまうという矛盾です。責任実習というと一斉指導ができるかどうかになってしまう問題です。そうなってしまう背景には、3歳児20対1、45歳児30対1という保育士配置数の問題や、環境を通した保育の無理解などが続いていることもあるからです。学生に保育士資格を与えるのは養成校ですから、保育の実施主体である自治体と保育園側へもっと強く「子ども主体の保育」を実施するように要請するべきなのです。

自然を身近なものに

2021/05/03

今日は屋上のプランターにひまわりの種を神宮司さんが蒔きました。昨年の夏は和泉橋からよく見えました。園の周りには、できるだけ分かりやすい季節の花を親しめるようにしたいのです。春はタンポポ、桜、チューリップ、菜の花、梅雨は紫陽花、夏はひまわりや朝顔、秋は菊やコスモス、冬はツバキやサザンカ、ナンテンなど。童謡に歌われているような花や木を実際に触ったり匂ったりしたいものです。

八王子の姉妹園から園だより5月号が届き、啄木鳥が木をドラミングする音が聞こえているといいます。ちょうど鳥のさえずりが夏を迎えているのが想像できます。園庭の藤棚もちょうど見どころでしょう。その場所は近くの池にカワセミがいるほどの自然が残っている場所なので、この千代田とは比べることはできません。

ところが、目を凝らすと千代田区にも季節を感じる自然が色々見つかります。ひまわりの種を蒔いた土の中から、カナブンの幼虫が出てきました。この土は買った黒土だったので、有機物があまり含まれていなかったのですが、だんだん土の中に微生物が繁殖し、小さな生態系が生まれようとしています。土の中から鳥が捕まえた獲物と思われる肉が出てきたそうです。「たぶん、カラスじゃないかな」と神宮司さん。三階建ての屋上にも、土があればそこを住処にする生き物がやってきます。昨年はバッタがたくさんいましたから、今年はそれがどう変わってくるか、新しい食物連鎖が生まれるはずです。

子どもの表現についてアーティストらと懇談

2021/05/02

先週425日の日曜日に海老原商店で青木さんが主催した座談会がありました。ダンサー、作曲家、演出家、写真家などのアーティストが集まりました。アーティストというのは別の言葉で言うと表現者ですが、何をどうやって表現するかはそれぞれです。何を語り合ってもいいのですが、私は自分の考えを言葉で表現することもアートだと考えていることと、子どもが言葉を話し出すことや体を動かしたがることの「ベクトル」の話をしました。自らが世界に向かって語りだす方向と力についてです。そのベクトルと成長と一致させるための表現を保育にしたいと思っているという話です。子どもが環境に関わって現れる軌跡がアート表現になりうる条件とは?そんな話です。青木さんはダンス指導の方法を語りました。その話を聞いていて、どうやったらもっとよくなるかは、そこに何らかのよさを見出していくような専門家から見た「見る目」というものがあることがはっきりとわかります。私はその判断はもちろんできませんが、子どもの心の動きに伴う対応についての「より良いもの」についてならわかります。リトミックを創ったダルクローズに詳しい方とリズムについて話し合うこともできました。表現の本質を探究する方々との語らいは楽しいものです。ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」を読み直すことにしました。

4月を振り返って嬉しいことは・・

2021/05/01

子どもの生活において「1か月」というのは、短いようでいながら、ある種の契機が誕生するには十分な長さがある保育期間です。新年度が始まって4月がちょうど終わったわけですが、この間に「いいなあ」と嬉しく感じることがたくさんありました。私たちは毎日、子どもたちの一瞬、一瞬にその都度の判断を繰り返しています。春の保護者会でお伝えした子育てのポイントをしっかりと理解していただいて、子ども一人一人の「支え方」を保護者の皆さんと共有できているという一体感は何よりです。

睡眠リズムの作り方(いい意味での夕食の簡素化、寝る2時間前のテレビ消し、本当に真っ暗にすることなど)、排泄の自立のポイント(尿意の自覚ができる身体的育ちという大前提など)、意欲的は食の進め方、感覚・知覚の個人差、衣服の着脱が小さな自信を育むこと、ちゃんと甘えさせることの大切さ、イヤイヤの意味など・・・色々なことをお伝えしてきました。

これらのことは子どもの自立を促すだけではなく、保護者のみなさんにとっても「ねばならない負担」からの解放につながるはずのものであり、過去に実際にあった「子育てが楽しくなった」という、多くの保護者の皆さんの体験に基づくものばかりです。それでも、まだ1か月です。健やかな毎日を気持ちよく迎えるようにしましょう。今日から5月が始まりましたが、楽しいGWをお過ごしください。

こどもの日まつり

2021/04/30

5月5日のこどもの日を前に、一足やはく「こどもの日まつり」を楽しみました。まずは、みんなで元気よく、♪屋根より高い 鯉のぼり・・・の歌を坪井先生のキーボード伴奏で歌います。

今年は本物の鯉のぼりを園舎に挙げたので、その「鯉のぼり」に乗って、大空をお散歩することにしました。素敵な絵本のお話の中で・・

一つ目の絵本は「こいのぼりくんおさんぽ」です。ねこが鯉のぼりに乗って、雲よりも高い大空をとびます。でも喜び過ぎてバランスを崩し、木の枝に落ちてしまうのですが、それをお猿さんが助けてくれます。

もう一つの絵本は「かえうた かえうた こいのぼり」。こちらは、虎の親子が登場する楽しいお話で、おとうさん虎が垣根に挙げたこいのぼりを見て、大喜びの「とらのこさんきょうだい」が、♪屋根より高い 鯉のぼり・・・の替え歌を作って、大はしゃぎするというお話。

替え歌がおかしくて、年中、年長の子どもたちを中心に大ウケでした。

その後、こどもの日をめぐるクイズ大会。「こいのぼりや ごがつにんぎょうは かざると どうなるの? ①わるいことがおこらなくなる ②おかねもちになる ③ママがすごくやさしくなる」といった3択クイズです。「は〜い」の手は③がとっても人気でした(笑)

そのほか、今日のおやつに出た「このたべもののなまえは? ①かしわもち、②はっぱもち、③ちからもち。さてどれでしょう?」とか、「しょうぶゆにはいると どうなる? ①おふろがすきになる ②びょうきにならなくなる ③からだがピカピカになる」。当たると、「やったー」と大喜び。

そしてクラスで作ったこいのぼりを見せ合ったのですが、マラカスになったこいのぼりに、注目が集まりました。

最後は、今日の行事食「お楽しみメニュー」の「こいのぼりランチ」の紹介。こいのぼりに見立てた稲荷、まりふのすましじる、からあげ、白菜のゆかりあえ、つけあわせ野菜、デコポン。そしておやつは、柏餅と野菜ジュース。

紙芝居で交通安全指導

2021/04/28

 

散歩や戸外活動を安全に行うために、今日4月28日、紙芝居を使って子どもたちに「交通ルール」を覚えてもらいました。物語はキツネのこんたくんが、おじいさんに薬を届けるというもの。

都会を通るので人間の男の子に化けてから、出発するのですが・・・

つい道路に飛び出してしまいます。

危うくトラックに轢かれそうなり、運転手さんに怒られます。

横断歩道を手を上げて渡ることを教えてもらうのですが

信号の見方を知りません。平気で赤信号を渡ってしまいます。お巡りさんに助けてもらい、

信号は青でわたることを教えてもらいます。

うまく横断歩道は渡れたものの、今度は踏切です。

電車が来ないから、踏切の隙間から渡ろうとしたら・・

電車がものすごいスピードで走ってきて、びっくりしたこんたくん、子どもから狐の姿に戻ってしまいました。

私が紙芝居をよんであげたのですが、子どもたちはシーンと熱心に見入っていました。

 

心が自ら一歩を踏み出すように支える

2021/04/28

 

園だより5月号 (巻頭言より) ホームページ「園だより」に本日アップしました

保育の要諦はなにか?と一言で核心を、と訊ねられたら「心が自ら一歩を踏み出すように支えることです」と答えます。さらに、短く漢字一文字で、と言われたら「自」になるでしょう。自然という言葉の原義ですよね、自ずから然(しか)るべくある、という仏教用語で「じねん」と呼びます。これをネイチャーに当てはめたところが、日本人の感覚の鋭さでもあるなあと、感心するところです。どうして、そう考えるのかというと、そもそもの生命の始まりは本人のことであって、本人が自ずと生き始めたものだからです。自然界の生き物は全てそうです。人間もそもそも、存在していること事態がすごいことだし、どの子も可愛くて、その子らしくて愛おしい。そのありようを、そのまま大事にしてあげたい。自分らしくあって欲しいから、そうであるように私たちは支えるようにしています。

例えると、そうですね、何がいいでしょう。昔からよく言われるのは啐啄同時です。雛が卵から孵るときに、親鳥がタイミングよく突いて殻を割ってあげることですが、出てこようとする雛自身の力が先にないと生まれないし、親鳥もタイミングよく程よい力で突かないと傷つけてしまいます。あるいは発芽の条件もそうですね。種は何もしなければずっと種のままですが、でも生長する生命力を秘めている。気温、水、空気(日光)を揃えれば発芽します。種の持つ生命力がまずあって、条件はそれを支えているだけです。

保育の例なら事欠きません。教育の五領域の「健康」のねらいは「自ら健康で安全な生活を作り出す力を養う」ことですから、ここにも「自ら」があります。危なくないようにと、なんでもモノを無くしたりして経験をさせないと、危険を回避する力が育ちません。また五領域の「人間関係」には、「支え合って生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う」となっているように、ここでも「自立心」が育ちのキーワードです。依存ではなく自立。他律ではなく自律です。しかもそれの力で支え合って生活しようと主体的な関係性(やさしさや思いやり)を謳うのです。

これは渋沢栄一がモットーとした「修己安人」に通じます。論語に「自分を磨いて人々の生活を安定させる」と語った孔子のことばに由来するそうですが、社会のなかで自分の志をどう立てるか、生きていく上でこれが一番難しい実践力ですね。そう考えると、その原点はやはり克己であり、先哲はそこに至る筋道の探究者ばかりでした。「自ずから」をどうやって養うか。教育界なら自己学習とか、自ら学び〜云々という「生きる力」の涵養の話になります。

では、子育てをどうするか。結論はいつもお話ししていることと同じです。環境をきちんと用意して子どもの探索欲求や好奇心を大切にしながら、選択できることを子どもに見えるようにしてあげること、その遊びや生活の中でその活動に没頭できるようにすること。それは子ども同士の関係の中にできるだけ任せて大人はあまり介入しないで見守ること。困ったらいつでも助ける用意があることを伝え、大人はどっしり構えて安全基地になってあげることです。

「こわいよ〜たすけて〜」をめぐる謎

2021/04/27

子どもの遊んでいる様子をどのように受け止めるのかという話をしていたら、ある人の言葉に「そうか!」と気付かされることがありました。3歳わいわい組のFちゃんが、ネットの高い方に自分で乗って、立ち上がって揺らしながら、ともて面白そうに楽しんでいたのです。そのときFちゃんは「こわいよ〜、こわいよ〜、たすけて〜」と言っていました。もちろん、本当に怖いわけではなく、本当に助けを求めているわけでもありません。その様子は、嘘っこの世界であり、彼女の想像力が働いて、何かのイミテーション(模倣)遊びになっています。私は「でも何をイメージしているのか、わからない、それは本人にしかわからない。地震なのか、船の上なのか、それとも何かのお話の世界なのか、それはどういうつもりなのかわからないです」そんなことを語っていたのです。すると、その人は単純に「ふりあそび、ですかね」という表現を使ったのです。

そうか「こわいよ〜」というふりあそびをしているだけ。そういうことって成立するのかもしれない。そう思えたのでした。怖いこと自体を見立てていると考えばいいのであって、何かの具体的な状況を想定しているわけではないかもしれない、そう思い直してみました。誰かになるとか、自分が具体的に体験した何か、という特定の何かではなく、「こわい思い」という、一種、一般化された「思い」や「感情」そのものを模倣することが、できているのだろうか? そんな見立て遊びが3歳児に可能なんだろうか? 地震や火事や泥棒や幽霊や鬼や、3歳になるまでにこわい思いは確かに色々体験しています。そんな体験から抽出された「こわい」という感情だけが、ふりあそびを成立させることができるものなんだろうか。そんなことをずっと考えています。

経験さえあれば、もしかすると、本人が本当はこわい思いをしていなくても、こわがっている何かをみて、それを思い浮かべているだけかもしれないですし、そんなに具体的な状況ではないかもしれない。なぜなら、霊長類は生まれる前から持っているものに不思議な模倣力があるので、そんなことくらい簡単かのかもしれません。新生児模倣と呼ばれる現象は生まれたすぐの赤ちゃんが、リラックスしているときに親の顔の表情を真似することができる現象です。舌を出したり、驚いた顔をしたり、しかめっつらをしたりすると、同じような表情を真似することができるのです。これは表層的な模倣なので、相手の意図や感情までを共感しているのではありません。

この模倣は3ヶ月ぐらいで消えてしまうのですが、子どもの遊びの中心に「模倣」がある限り、子どもが頭に思い浮かべている表象の広がりと豊かさは、大人が外から観察しているだけでは察しきれないものがあるのは確かだろうと思います。Fちゃんの模倣とは次元が違うのですが、それでも人間が持っている不思議な力、人と関わる力、間柄的な存在様式を考えると、他者に呼びかける「こわいよ〜」は、揺れるネットをこわい場所とみなし、しかも人と関わりたいという関係欲求が、こんな表象を呼び起こしている遊びになっているのかもしれません。

 

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