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園長の日記

青山星灯篭のダンス

2021/09/23

最近よく考えていることは、子どもの中にある「イメージの可視化」です。旧今川中学校の校庭で「鬼ごっこ」をしたときに、地面に引いてある線の上を夢中で歩き始めた子(9月14日)。アゲハ蝶を外に放すときに迸り出てきた言葉の数々(9月22日)。青木さんのダンスの時間に「こんなのどう?」っていうふうに見せてくれるポーズ(9月21日)。こんな瞬間はたくさんあるのですが、それでも旧今川中へ行かなかったら、アゲハを育てなかったら、コンテンポラリーダンスをしなかったら、そうした子どもの姿を確認することはできなかったでしょう。やってみなけりゃわからない(9月18日)ものです。

子どもの内面は「どうせ本人にしか分からないもの」と諦めてはいけません。やり方によって、子どもはそれを「表現」してくれることがあるのです。その「やり方」は色々で、こうじゃないといけない、というわけではないのですが、ただ共通するのは<何かと強く関係する状態のとき>であるのは間違いありません。校庭の地面の線に触発されて(ギブソンのアフォーダンス)その上を歩き出したことにも、<地面という物との関係>があります。何日もアゲハの世界に向き合いお世話をして育てたからこそ、子どもの中に優しい心情が育ったという<生き物への関わりという関係>があります(ノディングスのケアリング)。そしてインプロビゼーション(即興的表現)のダンスにおいても、自分と自分の身体との関係、あるいは自分の身体と見られている他者との関係があります。

昨日9月22日(水)の夜、北青山で青木さんのダンスグループZerOの野外公演を観てきました。高層住宅マンションを含む再開発された街「ののあおやま」の敷地中には、雑木林やビオトープ、遊び場やステージができています。夜空は満月。お彼岸のこの時期らしく、雑木林の中に22の灯篭が並んでいました。よそぐ風が涼しく、秋の虫の音も聞こえてきます。赤い灯籠が並んでいるのは理由があって、地元の有志が集まって江戸時代のある風景を蘇らせようとしているそうです。その風景とは歌川広重が約160年前に描いた浮世絵「青山星灯篭」の景色です(下の写真)。灯篭は二代将軍徳川秀忠の菩提を弔うもので、5年前から地元のギャラリーや善光寺で始まり、2年前から「ののあおやま」も加わりました。

なぜこんな経過を説明しているかというと、この歴史と舞台環境を知っていないと、青木さんのダンスの意味がわからないからです。この夜に演じられたダンスのタイトルは「もりのダンス」です。江戸時代から明治時代初期まで、青山・百人町周辺で行われてきた「星灯篭」がコンセプトです。イベントの企画者の意図は「逝きし人を偲び、土地の記憶を訪ね、地域の環境と文化を体験すること」というもの。ダンスを観るということが、古の祖先や両親、周りの方々へ感謝するような気持ちをダンスで表現しているように思えました。

子どもの内面に限らず、外から見える「表現」は、その表現を生み出している側の内面に動いているイメージがあるからです。現代アートが難しく思えるのは、その関係が見えにくいからです。どんなふうに「見えにくいのか」というと、見えやすいものと比較してみるとわかりやすいかもしれません。

子どもが「象さん」のイメージを持てば、象さんのつもりのダンスになります。見ていればすぐに「象さんね」とわかります。それは他の子どもにもわかります。では、そのイメージが「はらべこあおむし」だったら? アゲハ蝶だったら? これだったらその「お話」を知っているので、知っているもの同士でお互いに通じ合うでしょう。一年目のお楽しみ会の劇にもしました。誕生会でペープサートにして楽しみました。さあ、ここからが今日の日記のお題です。

それでは満月だったら、どうなるでしょう? お彼岸だったら? 人間も自然の一部、という考えだったら? 祈りだったら? 感謝だったら? それはどんなダンスになるでしょうか。それを青木さんたちは演じたのです。そこには、こうじゃなければ、という統一された振り付けがあるのではなく、それぞれの演者が直観する動きが折り重なって「わあっ・・すごい」という日本らしい風情を目の前に表してくれていました。素晴らしいものでした。

きっと子どもの表現にもそれがあるのです。言葉、作ったもの、積み木を並べたもの、描いたもの、叩いてみる楽器、鳴らしてみる音、走っている姿、飛び跳ねている瞬間、何かに感動しているとき。子どもの心の動き、イメージの躍動。それをなんとか「表現」にしていく営みの工夫が、創造と協働(協同)を目指すレッジョ・エミリア市の保育実践でしたし、イメージを可視化して子どもと子ども、子どもと大人、園と地域が繋がっていくために記録(ドキュメンテーション)があるのでした(9月17日)。

「バイバ〜イ いいところで暮らしてね」

2021/09/22

さて、この写真、子どもたちは何をしていると思われますか。

「バイバイ、いいところで暮らしてね」

「お花の蜜、たっぷりある場所のお花で暮らしてね」

「カラスに食べられないようにね」

「また遊びにきてね」

「海に溺れないように」

子どもたちは口々に、こんな言葉をかけていました。そうなんです。今日は朝早く、アゲハがサナギから孵化(じゃなくて羽化でした)して蝶になったのです。

そして3階のベランダから、自然に返してあげているところです。

私のスマホに一人ひとりの発言がはっきりと録音されているのですが、面白ことに気づきました。

こんなに多くの子どもたちがいて、何かを自由にしゃべっていいという状況になると、大抵はそれぞれがしゃべり始めて、声が重なってしまうことが多いのですが、この時ばかりは、そうなりませんでした。それはまるで、劇のセリフを順番にいう時のように、それぞれの発言を他の子どもたちが、しっかりと聞いているかのようでした。

そうなったのは、一つには、ベランダのネットにじっととまっているアゲハが、いつ飛び立つんだろうと、じっと見つめていたからかもしれません。固唾を飲んで見守っていたからです。

みかんの木に卵を見つけたのが9月2日。それから20日で蝶になりました。

人間に例えるなら二十歳で成人したわけで、蝶の1日は、人の1年にあたります。この間、ずっと毎日のように観察を続けてきた子どもたちだからこそ、冒頭のような言葉が次々と浮かんできたのでしょう。

・・・気持ちの優しい、子どもたちです。

中秋の身体で表現する「なんかいいやつ」

2021/09/21

今日は中秋の名月にふさわしい表現活動の日になりました。

アーティストのダンサー青木尚哉さんがやっていることは、子どもが描く自由画に似ています。写生ではなくて、子どもがイメージしたものを画用紙に自由に表現してみる絵のようです。輪になって「鬼さん、鬼さん、何するの?」と尋ねるられた子が即興で「これするの」と応え、それをみんなで「これするの」と真似します。リズムはイチ、ニイ、イチ、ニイの二拍子です。

イメージを形にすることは、紙やキャンパスの平面なら描く、といういのでしょうが、身体を使うのでやはり「踊り」や「舞」や「ダンス」なのでしょう。まあ、それはどうでもよくて、大事なのはその表現の起点と終点です。身体を動かし始める始まりがあって、終わりがくる。そしてまた始まり、終わるという短い時間の中で、身体が形作るものが存在して消えていく。絵画や造形物のように残ることがなく、なくなってしまうのですが、確かにそこには「子どものうちにあったものが引き出されていく創造」が行われているのです。

体を動かすといっても、「運動」でも「スポーツ」ではなくて「踊り」や「ダンス」であるのは、その「身体の形」に子ども自身がセンスの良いものを、なんだかいいと感じるものを、必死で嗅ぎ取ろうと、引き寄せようと、生み出そうとしていることがはっきりとわかるからです。その表現が楽しそうです。

身体表現として、「どうやろうか」と考えながら、「こんなのどうだろう」と試しながら、思い思いに体の動かし方をデザインしているのです。

それは「鬼さん、鬼さん、何するの?」に限りません。「ステップシークエンス」も「マネキンとデザイナー」も「じゃあ、今度はこんな風にしてみたい」という試行錯誤の身体表現です。

らんらん、すいすいの子たちにとっては、その意味あい、というか勘所、面白さがわかってきたようです。一方で、にこにこさん、わいわいさんには、「動物遊び」のような、ごっこ運動が楽しいようです。

そして、やっぱり花より団子です。こっちも歓声が上がっていました。

体験を表現して共有したい

2021/09/19

根が出たメロンの種が育つかどうかや、水をかけたら黒くなるか「やってみないと、わからない」ことを、子どもと一緒に試してみるのは、大人も楽しい。種も水も自然界の話ですから、そこには一定の理(ことわり)、法則、因果関係が見つかるものなのですが、いかにも「自然科学」とか学校の「理科」につながっていく傾向を見つけることができます。身の回りの「物質」や「生き物」には、そうした特徴を見出すことができます。対象についての「知」です。

確かに、保育は対象そのものの特性に気づくということも「保育内容」(特に領域「環境」など)にあるのですが、日本の保育内容は、それを「子どもの姿」で捉えることになっているのです。面白いと思いませんか? メロンの根が出たね、今度はどうなるかな。早く芽が出るといいね。・・・ここには「メロンの種についての知識」を得ることが保育内容になっていない、のです。

子どもたちは、メロンの種を見て、触り、土にそっと大事に埋めてみて、水をかけて、「どうなるかなあ」「芽が出てくるかなあ」って、感触を味わったり、生き物に気にかけてあげること、そんなことに何かを「気づき、感じ、試したりすること」の姿があるようにしましょうね、ということが保育所保育指針や幼稚園教育要領の保育内容なのです。

(うちわ話ですが、これが乳幼児の「考える」姿だというように捉えています。なので子どもの「思考力」の育ちは、領域「言葉」ではなく、領域「環境」に位置付いているのです。)

アゲハの幼虫が今、また蛹になっていますが、もうすぐ蝶になります。これに「驚くこと」や「不思議がること」や、「面白い、やってみたい」と子どもの興味や意欲が動くのです。子どもの情動的知性が働くことが大事だからです。生き物の飼育がいい経験になるのは、ある程度の時間がかかり、その繰り返される観察と餌やり、水やりなどの「お世話」が生まれるプロジェクト型の活動になっているからでしょう。

さらに、本当はもっと大事なのは、それを見守る大人側の方が、本気で「驚くこと」「不思議がること」「面白い」とおもうこと、なのでしょう。研修でレッジョのDVDを見て、「先生たちが楽しそうだった」という感想を持った先生がいたのですが、私たち保育者が大事にしている色々なキーワードの一つが「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)でもあり、それは保育者の専門性として持ち続けたい資質です。

レッジョから学ぶとすると、この子どもの心の動きを、ここから、絵にしたり、粘土で造形したり、ダンスにしたりします。20年前の映像でも「古典的な道具である粘土や針金だけでなく、パソコンで絵を描いたり、プロジェクターで光を当てること」などをしていたのですが、今なら多分、最新のテクノロジーも使いこなしながら、子どもの内面を外に表す遊びをするのです。それをまた共有し合います。アート表現が他の子どもたちや大人たちと生まれるコニュケーションの「道具」に位置付けているのです。さらに大きな価値の創造のために。当園での例でいうと、はらぺこあおむしの歌を歌ったり、ペープサートや劇にしたりしていることと同じです。一年目のお楽しみ会で、その世界を親子で親しんだことが子ども文化のコミュニティ作りになると確信しているからです。

自然界の営みを知ることが「知」なら、そこへ向かうだけではなく、子どもが受け取る内面の体験を、再現遊びや表現としてのアート(=アルス=手や体を通した技)にすることも保育なのです。「自然界」と「人間界」が「子どもの内面を外の表すこと」でつながるのです。自然科学と文化的活動を繋げているものが「人間の内面の躍動」なのだと思います。それが小学校以降の学習や生活につながっていくのです。

やってみなけりゃわからない

2021/09/18

1つの体験や気づきを、意味のある経験にしていくつながりをどうやったら作り出せるか。

例えば鈴虫の飼育のために土に水をかけたら「黒くなった、どうして?」と言う子どもの気づき。オープンエンドの学びの絶好のチャンスです。先生は答えをうまく説明できなくてもいい。仮に知っていたとしても説明できない方が良い。

「じゃあ、こっちに水をかけたらどうなるんだろう」を、実際にいろいろ、やってみる体験ができるといいのです。紙を濡らしてみたら? 布は? 濡れるものと濡れないものがあることに気づいたり、水とお湯で違うかもしれないと思う子がいたり、画用紙に水彩画で絵を描くことが、濡らすことに似ていると気づいたり、子どもの連想力や発想や考え方のパタンは、大人と違う面があるから面白い。

先日給食でメロンが出たのですが、その種を暗いところで水に浸していたら根が出たそうで、ちっち、ぐんぐんでそれを育て始めました。こういうのをいろいろやってみると、子どもがいろんなことに気づくはず。家庭でも時間があったらやってみて欲しいのですが、品種改良が進みすぎて、たいていの果実は、種からは育たない気がします。育つものと育たないものに気づくような実践も、SDGsになるんじゃないかなぁと考えたりしています。

園内研修で明らかになってきた当園の保育の特徴

2021/09/17

先週10日(金)に続き、同じ内容の園内研修を夜、6時から8時まで行いました。全員の職員が一度に参加するのは難しいので、2回に分けて行った園内研修です。園内研修は色々なスタイルがあるのですが、開園して3年目の今年は、改めて当園の特徴をはっきりさせながら、それをさらによくしていくためにはどうしたらいいのか、という方向性を大事にして進めています。

今回の研修の内容は当園の「10年の長期計画」の中に位置付けているカリキュラムマネジメントのアップデートです。全ての先生たちと足並みを揃えながら、保育園のカリキュラムの現状を認識し、何をどうしたらもっと良くなるのかを探るための研修になります。園長の仕事は5つあって、まず「社会的責任」を果たすために、どんな「理念・ビジョン」を目指すかを作り上げます。この2つが最も大事なので、ここを丁寧に検討します。その材料が世界の動向と東京・千代田区の動向です。今回は千代田区の方にも参加してもらいました。(ちなみに園長の仕事の3つ目は施設の設置及び維持管理、4つ目が職員の採用・養成・職能開発、5つ目が具体的な保育の計画と実施です)

世界の動向はOECDの動き、そこで紹介されている世界のファイブ・カリキュラムの現状確認、日本では政府、日本保育学会の議論、発達保育実践政策センターの見解などを参照します。今回の研修はイタリアのレッジョ・エミリア市の実践をめぐる保育研究者ピーター・モスの議論を下敷きにしたものです。具体的には、20年前のDVD「こどもの100の言葉」を見ながら、現代と将来に生かしたいことを明らかにすることです。これを取り上げたのは60年以上も続いている優れた実践であること、民間ではなく「市」が実践しているものであること、町づくりとセットの実践であるからです。

前回10日と今回の先生たちの感想から、当園と同じものが5つあることが明らかになりました。

(1)子どもの中から生まれたものをうまく引き出す保育であること

(2)子どもの興味や関心から出発している保育であること

(3)子どもの体験のつながりのプロセスを大事にしている保育であること

(4)子どもも保護者も先生も地域の方も自治体も仲良く協働して生活を作り上げていること

(5)それぞれの当事者(子ども・保護者・先生・地域の方など)の体験の意味を可視化する方法を持っていること

そしてこれらの要素が検証をへた保育学、教育学の理論に支えられていることです。

課題は、それぞれをもっと良くすることです。

例えは、(1)から(5)に共通する課題として見えてきたことは、レッジョではドキュメンテーションという方法をうまく活用してきました。子どもの「体験」の様子をスケッチブックのような記録用紙に、個別に記録していきます。それは先生たちが、子どもの活動や体験の意味を話し合うために使います。まずは保育計画を検討するためのツールとして使っていることがわかります。「可視化」の目的は、まずここにあります。子どもにとって「体験」を「経験」に発展させていくために、まずドキュメンテーションがあるのです。この記録は極めてラフな手書きのものです。(1)や(2)や(3)のために使います。

(4)のために、当園ではクラスブログがその役割の一部を担っています。レッジョでは、先生のスケッチブックのような現在進行形の保育記録が、今度は写真やビデオや作品などの展示、掲示によるドキュメンテーションに変化していきます。これを保護者と共有します。

(5)のためには、子ども同士の協同性ということが、レッジョからは参考になります。個々の探求の過程を子どもが一緒に見たり、話し合ったりすることを意図的に行います。子ども同士の関わりを大切にしている当園と同じように見えます。

しかし、面白いのは、それは当園が今やっている「表象」の捉え方を、レッジョはもっと徹底していることでした。子どもが何か心動かされる体験をしたとします。すると、それをさまざまな道具を使って、表現する遊びをふんだんに取り入れるのです。例えば、朝のお集まりでみかんの皮を嗅ぎます。甘酸っぱい、あのオレンジの皮の匂いが子どもたちのイメージを掻き立てます。それを水彩画の絵にする子ども、鍵盤を鳴らして音(音楽)にしている子ども、言葉を書き記す子ども・・・イメージを表現すること、可視化すること、再現することで、他の子ども同士が、気づき、感じ、それを見合い、聞き合い、興味を持ち合い、さらに刺激し合うという「協同性」を生んでいるのです。

それが、結果としての保育の可視化としてのドキュメンテーションなのですが、どうも日本で広がってきたドキュメンテーションは、それまでの保育のプロセスは変えずに、単発の活動を写真や動画に収めて、「こんなことをしました」という日記になってしまっていることが多い気がします。それでも可視化による共有やコミュニケーションは生まれるのでいいのですが、大事なのは子どもの体験や経験の質の広がりや深まりなどの方なので、そこがどうなのか、という子ども理解への言及が必要な気がします。

当園の先生たちの眼差しにはそれがあって、ブログを見ていただけるとお分かりだと思いますが、心の動きを捉えた記述になっています。さらに千代田区と話し合っていきたいのは「保育のプロセス」における保育書類のあり方です。特に保育書類にPDCAの痕跡があるかどうかをチェックするような監査をしている限り、保育現場を保育の本質から遠ざけてしまうことになってしまうことに、早く気づいて欲しいものです。日本では自治体の保育を見る目が問われているのです。

 

 

リモートで「コーヒータイム」再開

2021/09/15

10月からZoomを使ってリモートの「コーヒータイム」(茶話会)を開きます。参加はどなたでも可能です。その参加しやすい曜日や時間帯を検討した結果、まず土曜日の午前中で試してみます。10月の第1回は16日(土)です。時間は午前10時から11時の1時間です。毎回、ゲストスピーカーをお招きして、前半は私との対談で進めます。後半は皆さんとの「雑談」です。第2回は11月は27日(土)を予定しています。それ以降はこの2回を踏まえて再考します。

千代田区が「運動会を無観客にするかどうか」検討中

2021/09/14

(写真は、9月14日旧今川中で、羽崎さんの鬼ごっこの話を聞く子どもたち)

政府が東京都の緊急事態宣言を9月末まで延長したことを受けて、千代田区は全ての小学校で運動会を「無観客」とすることを決めました。しかし幼稚園、こども園、保育園の方針はまだ決まっていません。

保育園担当の千代田区教育委員会子ども支援課は幼稚園、こども園の方針に従う模様です。もし中止、あるいは無観客となった場合、千代田せいが保育園の「親子運動遊びの会」も中止となる可能性が出てきました。

ただ、これまで参加経験のある保護者の皆さんはご存知の通り、千代田せいが保育園の「親子運動遊びの会」は、保護者が観客となって園児の演技をみせるような趣旨の行事ではありません。

千代田区へは「運動会ではない」という趣旨で相談する予定ですが、屁理屈と思われると困るなあ、と危惧しています。でも反対に「運動会」よりも密なので、どうなるかわかりません。最悪の場合は中止ということもあり得るかもしれません。

予定している時期が10月23日(土)です。仮に9月末で緊急事態宣言が終了して蔓延防止措置期間に移行していて、できれはそれも終わっていることを祈りますが、その見通しは期待できません。

ただ体育館を貸してくださる和泉小学校とは交流が深まっているので、そこに期待しているところです。しかし少なくとも、実施方法は子どもへの感染対策は昨年よりも強化しているので、昨年よりもさらに工夫しなければならないでしょう。

おお!「能力」ではなく「姿」や「心情」か!

2021/09/13

日本の保育は世界と異なるところが色々あるのですが、その話で出てくるキーワードの一つが「東アジア」です。日本保育学会の会長の秋田喜代美さんは、日本の保育カリキュラムは、能力ではなく経験で編成していることが「東アジア」の特徴だといいます。

「日本のカリキュラムを編成する五領域自体が、欧米のカリキュラムのようにどのような能力を育成するのかで編成し、その育ちを測定するという発想ではありません。領域「環境」等に象徴的ですが、どのような経験を卒園までに保証するのかという経験内容でカリキュラムが構成され、その内容に対しし子どもの心情や姿の現れを捉えようとする東アジアの固有の教育課程思想に裏打ちされたものです」(ミネルヴァ書房『発達』162号「日本の新たな保育の物語への展望)。

これを読んで、そういえば・・と思いつくことが色々あって、たとえば日本人が大好きな和歌や短歌、俳句の「よさ」をめぐる心情です。そこには、歌い手の資質や能力を測定しようというアプローチはそぐわないでしょう。あるいはお釈迦様の資質や能力がこうだ、ああだなんてあり得ません。「晴天を衝け」の栄一の母ゑい(和久井映見)が、いたずら盛りの幼少の頃の栄一に、次のようにいう場面がありました。

「人は生まれてきたその時から一人じゃないんだよ。いろんなものとつながってんだよ。(胸に手を当てて)ここに聞きな。それが本当に正しいか、正しくないか。あんたが嬉しいだけじゃなくて、みんなが嬉しいのが一番なんだで」

「論語と算盤」の渋沢栄一。ちょうど中国で孔子が活躍した頃、インド(ネパール)ではお釈迦様が旅を続けていたらしいのですが、それはざっと2600年も前のこと。その頃からずっとこの東アジアには、人間関係の中にみられる幸せ観として、大乗仏教をうみ、人の生き方の中に美学を磨き上げて、一途さや、切なさや、面影や、移ろいなどの境地を、自然の畏敬とシンクロするようにして賞味し、培ってきた歴史があるのではないでしょうか。保育の中にも、その一瞬を大切にしようとする心の動きがあるように思えて仕方がありません。

今日のぐんぐんさんのブログには、Sくんの心情を捉えた描写があります。能力や学力を「生きる力」と言いかえたところで、こんな心の風情を、気の利いたコンピテンシーとやらで一緒にされてたまるか!という気にさえなるのでした。

 

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