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園長の日記

実習生から学ぶという意味

2021/09/11

私たちの仕事、つまり保育は国家が決めた保育士の資格を持っていないと就いてはいけません。その保育士の資格を取得するためには大学や短大、専門学校などの「保育士養成校」で最低2年間の履修が必要です。千代田せいが保育園の先生たちも全員、その資格を持っているのはいうまでもありません。そのカリキュラムを「保育士養成課程」といい、その中核に「保育実習」が位置づいています。保育所実習は履修期間に2回あります。その実習生が授業のない8月〜9月や2月の年度末に来ることが多いのです。実習生は毎日、その目的を持って臨み、実習日誌を書きます。保育は具体的な事例で考えることが基本です。日誌にも事例を考察する欄が必ずあって、昼間に担任と語り合った内容を踏まえてまとめます。それを読んでいると、保育に対する思い込み、刷り込みが必ずあって、それは学んでいる学生でさえそうなので、一般の社会でも偏った考えが広がっているんだろうなあ、と想像されます。

よくあるのは、大人が子どもに「こうあってほしいということをどうやったら理解させることができるか、伝えることができるか、身に付けられるか、できるようになるか」その方法を学ぼうとする発想です。これは「やらせる保育」という大人だけが主体となった保育として、幼稚園教育要領もこども園教育・保育要領も、そして保育所保育指針も明確に否定している保育観です。一般の社会教育や社員教育ではこの教育観が一般的ですし、それで「大抵は」構いません。特定の知識と技能を効率的に身につけるには、その方法を軸に考えればいいからです。

ところが、乳幼児保育や教育は、心の豊かさ、意欲、自分から学びに向かう力、人間性などを育てることを最も大切にしなければなりません。これを「心情・意欲・態度が育つ中で、よりよい生活を営もうとする、学びに向かう力、人間性等」という言葉で、幼稚園教育要領もこども園教育・保育要領も、そして保育所保育指針でも明記されています。

実習生には、オリエンテーションの時から、こんな話からすることにしています。

保育園って、生活の場なんですよ。園生活にいっぽ足を踏み入れた時からすでに保育は始まっています。どのように「言葉かけ」をしたらいいのか、なんていう業界用語はいらないんですよ。ちょっと考えてみてください。あたなの生活の中で、最近「言葉がけ」という言葉を使ったことがありますか? そうでしょ、ないでしょ。それを使うときは、例えば喧嘩した後とか、気まずい関係になった後とか、そっとしてあげているときに、どんな言葉をかけてあげたらいいのか、悩みました、っていう状況の時ぐらいじゃないですか。そんな緊張関係で保育や子育てを考えること自体が、もう歪んだ生活だと気づいてくださいね。・・・

この感覚と繋がっているのですが、子どもをまとめる力、全ての子どもを見渡して見逃さないように気を配る力、死角をなくす保育、先生の方へ惹きつける力、先生の話を一斉に聞くことができる行儀良さ・・・これらはみんな一斉授業、集団を統(す)べる力、このような大人主導型教育のなごりなのです。私たち大人も、日本ではそうした授業風景が「当たり前」で「常識」だと思い込まされているので、仕方ありません。今の学生もそれが当たり前ということは、いまだに日本の学校教育が「個別最適な学び」になっていないからでしょう。

保育は子どもの考えや思いをまず理解しようとするところから始まり、その子ども理解から、「じゃあ、こんな遊びをしたり、こんな活動ができたら、その体験がいい経験になっていくんじゃないかしら」と思いつくことが、あなたの保育の構想力であり、あなたの指導案になるんですよ、という話になっていきます。その時、こんなのがいいんじゃないかな、という探求は、大人も答えを知らないことが多くていいのです。子どもも大人も一緒に探究する生活の主体者なのです。これをオープンエンドの学び、いいます。一般の社会人、会社員、生活者、研究者が行っている学びです。学校教育だけが答えのあるエンドクローズドな学びの傾向が強いのです。

子どもは教える対象であり大人が教える立場にあるという思い込み、子どもは未熟で大人は成熟しているという思い込み、そうではないと学び直すことが、大人に求めらているのです。これが乳幼児教育の基本になっているのに、あまり理解されていません。この基本を実際の保育を通じて感じ取ってもらい、考察を深めることが保育実習のスタート地点(起点)になります。

そのスタートラインに実習生と共に先生と子どもが並んだ時、私たちは実習生の気づきから学ぶことがあるなあ、と実感するのです。例えば今日も「◯◯ちゃんと◯◯ちゃんなら、おもちゃの取り合いになっても、大丈夫だから少し見守っていました。いいですよね」という実習生の学びや判断に感心したというエピソードがありました。担任の方が「そう言われて、私たちだって、ああそうかって、気づいて。正直、焦っちゃいますよね」と嬉しそうでした。

園内研修

2021/09/10

これからの保育、ということを考えるとき、これまで私は日本の保育を想定して考えてきました。時代がどのように変わり、次の保育所保育指針がどう変わっていくだろうか?ということを予想しながら、考えてきました。それは一方で「本来はこうありたい」という話でもあります。今後の保育はどうあるべきかという話の中に、時代や社会状況の変化を見越して変えなければならないものと、変えてはならないものがあります。

そこを話し合うために今日10日の6時から8時まで園内研修をしました。場所は和泉橋出張所。テーマは「千代田保育園の10年計画」です。題材に使ったのはイタリア、レッジョ・エミリア市の実践DVD「こどもたちの100のことば」です。世界同時多発テロが起きた20年前、2001年に世に出た映像ドキュメントです。戦後に始まったレッジョの保育は60年以上続いています。それは今もなお、優れたこどもの創造性と協同性を育むものとして、世界の保育に影響を与え続けています。今日の研修ではこの実践をみながら、時代が変わっても、変わらないもの、実現させたいものについてこの事例から話し合いました。

この実践の最大の特徴は、カリキュラムのデザインが優れている、ドキュメンテーションという手法を編み出した発祥の場である、それを用いた保育者の話し合いが豊かになされているという点にまとまられますが、それを長い間、継承発展させることができているのは、実践の主体が自治体であるということに注目しないわけにはいきません。市をあげて、市民が取り組んでいる実践なのです。建物も保育材料も人材も全て公立の幼児学校、乳幼児保育所の話なのです。例えば、千代田区の公立幼稚園、公立保育園が取り組んでいるような話なのです。

基礎自治体が何を目指すのか、どんな保育を創り出したいと考えるのか、そのために財源をどう使うのか、そういう視点で見ると、実に豊かな仕組みが出来上がっています。建物は中央の広場(ピアッツア)を取り囲むように教室が取り囲み、教室は明るいアトリエと暗いアトリエが並んでいます。アトリエといっても画材や製作の材料が置いているだけではなくパソコン、OHP、プロジェクター、ライトテーブルをはじめ、テレビ、印刷機、切断機、ブック製作機など、当時の最先端のテクノロジーが総動員され、市が運営するリサイクルセンターが木、石、布、紙、綿など実にさまざまな自然物と、ボルト、ねじ、プロペラ、電気素材、建築資材などの人工物を全ての園に提供しています。アトリエの棚は、まるで秋葉原の電気街のパーツのように教材、資源が綺麗にふんだんに並べられています。

人材も豊かです。教育学や保育学の専門家、教育指導主事のような立場の先生が一人(あくまでも各園に一人です、日本の教育委員会事務局のように市に数人、ではありません)、さらに子どもの興味関心を具体的な表現に結びつけていく芸術の専門家が一人、加配されています。朝登園してくると何をするか、何を探究するかを決めると、例えば鳥の絵を描きたいという子がいれば、園庭にイーゼルを出して絵を描き始めます(園庭はバードウォッチグができるような場所であり、そのためのエリアまであります)。

ある子はイタリアの国民的スポーツであるサッカーの試合のビデオを見ながら、お気に入りなのでしょう、好きなサッカー選手のカッコいい動きを粘土で再現していたり、園庭ではブランコに乗っている友達の姿を前から後ろから横からと、いろんな角度からスケッチしている子もいます。ブランコを持つ手の形を何度も書き直して、その表現に拘っている子の探究心がクローズアップされていました。このような活動をしている4〜5人の子どもに対して一人の先生がついてドキュメンテーションをつけながら、子どもの興味や関心に沿って、活動を発展させ探究を深めていく手助けをしていきます。

そうした活動は一つのテーマ性を持ったプロジェクトという言葉で語られ、短くても数日、大抵は2〜3週間、長ければ数ヶ月に及びます。その間にそれぞれの子どもが身近な世界に分け入り、何かに気づき「じゃあ、どうなんだろいう」という問いを生み出しならがら、その興味と問いを保育者が理解しながら支えていきます。粘土で作った人が倒れないようにする工夫について、子どもたちが話し合っています。いいアイデアが出たら、先生は「さっき◯◯くんがいいこと言っていたよね」と、同じ疑問を考えている子どもに、友達の発言へと注意を向けさせたりしていました。

この場面は、これからの日本の学校教育が目指そうとしている「個別最適な学び」と「協同的学び」のいい例です。個別具体的な学びのプロセスを他の子どもの学びに役立つように、考えたプロセスを語らせ、共有していく話し合いを大切にしているのです。先生はその学び合いの促進者、伴奏者、仲介者のような役目を果たしています。

探究していくテーマは水、土、光、熱、太陽、恐竜、街・・・子どもの生活の中で出あう世界そのものです。それを子ども自身のものにしていく、自分の中で生じたイメージを形にしていく、形にしたものが他者とのコミュニケーションの「道具」になっていく、そういう保育観が保育展開の中にあります。

子どもの表現したものは、その過程が記録されていくと同時に、作品として終わるのではなく、その作品が新たなコミュニケーションをうむための「道具」として使われているのです。作品の鑑賞という意味だけではなく、そこから子どもや大人や市民がインスパイアされていく、影響を受けていくのです。大人の作品も子どもの作品も、そこに優劣はないのです。これが幼児学校、乳幼児保育所が市全体へ向けて情報を発信している文化センターのような位置付けになっているのです。

これは日本でイメージする託児所でも保育所でもなく、藤森統括園長がよく言ってきた「遊びのミュージアム」に近い位置付けです。地域に開かれた保育園というキャッチフレーズは日本でもよく聞きますが、地域に発信し交流し街の広場に生活圏が広がっていく子どもの表現のセンターになっているのです。

DVDには最初の方で、みかんの皮の香りを水彩画や作曲にしている幼児が紹介されています、その筆の動きや鍵盤の触り方は、長い時間をかけて表現を楽しんできた軌跡が想像できました。

映像はその時の一瞬しか映し出しませんから、昨日のブログで書いた「体験」と「経験」の違いのように、映像で映し出された体験の様子から、それまでの経験を想像します。

ドキュメンテーションはその理解のためにも役立ちます。成長展で年3回同じテーマで描く絵やシルエットは、つながりのあるプロジェクトではなく定点観測ですが、経過や変化、成長を読み取る意味では同じような役割になります。

この保育観がうみさ出されてきた背景には、芸術の伝統、ルネッサンスを産んだイタリアの歴史、ナチスに一度占領されたレジスタンス運動で培われた抵抗の精神、自らの存在を自己表現する手段を持つことの意味、他者と関わっていく、出会っていくことの人生における意義などがあります。ここがしっかりと議論され、練られ、市民と一緒に共有されているからこそできる保育観なのです。

さて、江戸時代から続く千代田区の伝統あるまち神田岩本町。クールジャパンの一つの代表でありAKB48を産んだポップカルチャーのまちアキバ。神田川を挟んで歴史の積もった過去と、未来と世界につながる現在の見事なコントラストをなすこの場所で、どんな保育を思い描くことにしましょうか。

 

 

子どもの「体験の地図」を作りたい

2021/09/09

全園児がそれぞれの体験をしています。その体験がどのようになっているのか、全てを把握している人はこの世に誰もいません。もし、これを一人ずつ追跡、把握して、そこで起きている体験を記録しておく仕組みができたら、それはノーベル賞ものなのですが、というより原理的に不可能だろうと思います。というのも、カメラで全て記録したとしても、それは外から見える姿、行動の奇跡でしかなく、体験の記録にはなりません。体験は子どもの内面で起きていることだからです。心の話だからです。(まあ、脳とか身体も含まれますが)

では、体験を記録することはできないのでしょうか?その前に「体験」とはなんでしょうか?辞書的には色々なことが書いてあるのですが、私が定義するなら「実際に身をもって行った短い1回の出来事」とでもいっていいでしょう。保育体験、職場体験、戦争体験のように使います。一方、似た言葉に「経験」がありますが、こちらは体験の時間が長くて、その間に生じた心情や考えや知識やスキルなどが生まれ蓄積されていることを想定しています。人生経験、キャリアの中の保育士の経験、留学経験がある・・などと使います。

すると、子どもの育ちや成長の話は、「いい経験になったね」という言葉で表されるような、一連の体験の積み重ねがモノを言うことになるのでしょう。今日は散歩に行っていつもはできない砂いじりで遊んだという「体験」があったとしたら、それは久しぶりの戸外遊びで、心も体も開放されたような気持ちのいい「経験」になりましたと言えるようなモノだったかどうか。お泊まり会という一回の「体験」が、なんだか一晩だけなのに、一回り成長したような「経験」になった、と言われるように。

子どもの姿をカメラで記録したからといって、その体験がどんな意味を持つものか、機械が自動的に説明してくれることはないでしょう。例えば「今日は美倉橋公園の砂場で遊びました。滑り台に乗りました。〜もしました。・・・・」。それらは誰であろうと、見ればわかるようなことでしかありません。でも、それだから何だというのでしょう? そこから先が知りたいし、そこに発達や成長や心の動きや個々の「100の言葉」がある、その意味を知りたいに決まっています。

今日のぐんぐんの子どもたちが「カブトムシを土に返した体験」は、ずっと一緒にいたカブトムシとの別れから生まれる心情の育ちを感じさせる描写になっています。こんなにいい「経験」になっているということが、よくわかりますよね。

つまり、子どもが何をどのように「経験しているか」は、私たちがその姿から何かを解釈しているから、意味が生じていることになります。私がKくんやFちゃんが「すごく言葉が上手になったなあ」と思うのは(解釈するのは)、それまでの過去の姿を知っているからであり、一緒に生活してきているから、「わあ、今日こんなこと言ったよ」と感激するのです。成長を読み取るのです。もし、一緒に生活していない人がそれをみても、そのように感じることはできません。例えば、もし今日実習生がその姿を見たとしても、それまでの経緯を知らないので、それが初めての姿だとは気づくことはできません。

このようなことを考えると、保育というのは、今の子どもの姿から、どんなことを「体験」させていったら、意味のある「経験」になっていくのかを計画して実施に移すことだと言えるでしょう。

同じ種類の遊びをずっとやっている子どもは、「そのテーマの深い経験になっている」ことがよくあります。反対に今日は、実習生の2回目の反省会があったのですが、ある子どもの姿を語り合っていたら、「どうやったら、こっちの遊びも体験できるようにしてあげられるか」の話になりました。

実習生は、うちの先生たちの「関わり方の豊かさ」に気づいたそうです。保育者の役割はいろいろですが、遊びの発展に関する専門性としては、例えば子どもが思わずやりたがるような空間やモノを用意する。その時、その子が好きなごっこ運動遊びができそうな空間に変える。やりたがるような遊びを先生が提案して一緒にモデルになって遊び、子ども同士で遊べるようになったらフェイドアウトしていく。このようなそのバリエーションが豊かであるほど、子どもの今に合わせた応用ができます。

ちなみに、子どもが没頭しているその世界に先生も好奇心をもって一緒に探究できること。それも大切な資質になるでしょう。それなので、先生は子どもが興味を持つだろう世界に、一緒に興味を持てるように、先生は色々なものに興味や関心をもって、好奇心が向かう世界が広い方がいいのです。

話を戻します。子どもの体験がつながっていくと経験に変わっていきます。その過程で生み出されるものの中に、かけがえのない子どもの表現が刻まれていくのです。そこを丁寧に汲み取りたい。そのためには、どんな「経験」になるのが望ましいのかを考えることができる教育学者としての先生が必要なり、また一人ひとりの「体験」から生まれる「表象」に形に与えていく遊びを生み出す感覚に優れた先生も必要になります。

レッジョ・エミリア市はそのために、それぞれの園に教育学の専門家であるペタゴジスタとアートの専門家であるアトリエリスタを配置しました。前者は社会構成主義的な発達を保障できる専門家。後者は一人一人のウェルビーングを豊かにできる専門家です。

千代田せいが保育園では、子どもの「経験」の幅を広げていくために、色々な教育資源(リソース)を蜘蛛の巣のように繋いて、体験マップを作ってみたいと考えています。そのマップのどこをどのように選んで歩いていくのかは子どもの自由です。でも歩いているうちに、すごい「経験」が生まれていた!みたいなことを構想しています。保護者の皆さんにも、その体験マップのリソースになっていただきたいのです。どんな体験の地図ができるか、その地図はどのように表現したらいいのか、皆さんと考えていきたい思います。

平凡な毎日の豊かな生活

2021/09/08

 

緊急事態宣言が今月9月30日まで延期されるようですが、この宣言の影響で下がっていると考えるのは難しいなあという実感を拭えません。世界的に同期していることは季節の影響が強いのかもしれませんし、どんなメカニズムなのかは依然としてよくわからないことが多いですね。きっとこうだろうと思ってやっていることと、ウイルスの世界で何が起きているのか、もっと多様な知見と議論が聞きたいと強く思います。

さて、今日の朝の運動遊びに入ったのですが、子どもたちの雰囲気が「ほんわか」としていて、運動したい!園長らいおんやりたい!というのと一緒に、なぜだか、ふわっと落ち着いて遊ぶことができました。それから改めて感じるのは、子どもはいつも「つもりの世界」が大好きなんだということです。

子どもたちは盛んにネットに登ったり降りたり、壁によじ登ったりして体を動かしました。汗をかくほど、運動しました。途中で水筒の水を飲みに何度か行きます。ネットに登って降りてこないなあ、と思うと、ライオンの私は「ああ、眠くなったあ」と言って、居眠りのふりをします。すると、子どもたちはその間に、ライオンに見つからないように急いでネットから降りて壁に登ります。スリル感を感じて、登ったり降りたり、この感覚がとても楽しそうです。

今週は、毎日散歩に出かけていますが、午前中の公園での遊びも楽しかったようです。午前中の外遊び、昼食、午睡、午後の遊びと、体にあった生活リズムが作りあがっていく姿をみていると「よ〜し、この調子、この調子」と思います。昼食が終わろうとしているとき、ぐんぐん組の子がお友達がまだ食べているそばで、じっと見守ってあげている姿が、なんとも微笑ましくて、なんでもないように見えるこの瞬間が成立していることが、素晴らしいと感じます。

この夏の間に、言葉が上手になった子が何人もいて驚くような場面があります。ぐんぐん組(2歳4ヶ月)のFちゃんが「Aちゃんのおてふきがどうしてここにあるの?」と、聞いたりしています。え!いつの間にこんな多語文を話すようになったんだろう!とびっくりです。いつまでも、1歳のぐんぐんさん、なんて思っていたらいけませんね。

トンボを捕まえてきた年長の子が「弱っていたから逃してあげた」とか、年中の女の子が私に「ちょっときて」と手を引いて、アゲハの青虫がみかんの葉っぱとむしゃむしゃとよく食べている様子を教えてくれたり、年長の子が「どこに目があるでしょう?」とクイズを出して「ほんとうはここなんだなよ」と虫眼鏡で見せてくれようとしたり、それぞれの子にとっての探求活動も楽しそうです。

第1回保護者アンケートのお礼

2021/09/07

今年度初めての保護者アンケートは7日現在で32家庭からの回答をいただきました。ありがとうございました。今回のアンケートは私たちが目指している保育の目標や考え方についてお尋ねしました。ほとんどの内容について「そう思う」が多かったので、目指している子育てのあり方を共有していることがわかり、大変嬉しく思っています。お忙しいなか、多少多かったかもしれない質問項目にご回答いただきありがとうございました。回答いただいた結果はまた集計してフィードバックさせていただきますのでしばらくお待ちください。なお、これからの集計期間中に回答していただいても構いません、集計に間に合うまで、できるだけ皆さんの声を反映させていただきます。

(ここから先の話は、さらりとは読めない、ちょっと重い話題なので、暇な時にどうぞ。)

ところでアンケートは色々な種類や方法や考え方があって、そのあり方自体に議論があります。

例えば東京都は「福祉サービスの第三者評価」と言って、全ての福祉施設を対象に利用者の満足度を聞きます。介護分野などを含めたすべての福祉サービスは直接契約になっていますから、利用者の選択に資するために、施設の満足度を点数化します。保育園も厚生労働省所管の「児童福祉施設」ですから、この「福祉サービス」に含まれています。しかし保育園は直接契約とは言っても、入園の選考は基礎自治体(千代田区)が行いますから、他の高齢者施設や介護施設とはちょっと異なります。東京都は3年に1回受けるように義務化しています(県によって異なります)。

そこで意見が大きく分かれていることがあって、義務教育である小中学校は学区制度で選べない場合が多く、選択になっていません。すると教育内容は、どの小中学校へ言っても同じでなければいけません。そこで「満足度」は聞きません。それはそうですね。学習指導要領の内容を教育しているので、聞くのはその達成具合がどうか、ということを関係者が自己評価する色合いが濃くなります。関係者には保護者も含まれていて、その学校の教育目標などを教員は周知しているか、保護者はどこまで理解しているか、という質問が入ってきます。保護者は利用者ではなくて当事者なのです。

そうなると、文部科学省所管の幼稚園は学校なので、第三者評価ではなく自己評価と関係者評価が義務化されており、どの園がいいのかな、と選ぶための満足度調査はありません。でも実際には幼稚園は直接契約であって、幼児教育の内容も保育料も各園が決めることができます。保育園とはそこが異なります。ではその二つが一緒になっている内閣府所管の「幼保連携型認定こども園」はどうなるのでしょうか。

このような性格の違いあって、私はそれぞれの評価のあり方に関わってきました。東京都の福祉サービス第三者評価者としてこれまで53の保育園やこども園の評価をしてきました。また学校関係者評価としては八王子市松木中学校のコミュニティスクルールの関係者評価の内容を検討する委員でした。今回実施した保護者アンケートは、質問内容そのものが保育目標と方法の説明になっているのですが、当事者調査の手法を取り入れました。

第三者評価は保育をサービス、つまり商品化します。利用者の選択の参考に役立てるというのが主目的なので、そこで問われる質は、新自由主義経済の中での質になります。

ところが、世界の保育界の議論は、新自由主義経済でのPDCAを回すだけでは、世界が破綻することが目に見えているので、問われるべき質は、何を目指すかという理念やビジョンの質に移ってきています。

これまでの民間の幼稚園や保育園のように、目指すべき保育理念やビジョンを創設者の思想の自由に任せていては、持続可能な社会を実現できるとは思えません。経営が成り立つための幼児教育が、これからの時代にふさわしい内容とは限らない、という課題です。

世界は目指す理念の価値そのものを変えよう、となってきています。そうした議論を経て、保育理念や保育方法の再構築が進んできています。日本は待機児童問題という量の問題からやっと質の問題に移りつつある段階です。しかし最近の世界の議論は、その新自由主義的な質、幼児教育を投資の対象とみなして充実させれば、後で大きなリターンが勝ち取られるという物語からも離れよう、それはウェルビーングとは違うんじゃないか、という考え方が広がってきました。その代表的な保育実践がイタリアのレッジョ・エミリア市の公立で60年以上続いている保育のあり方であり、その考えを政府が取り入れて改革を進めているのがスウェーデンになります。

同じ就学前の0歳から6歳までの子どもたちは、同じはずです。日本は通う施設や学校によって、位置付けや保護者との関係が異なり、同じように見えて異なる制度が動いていて、とってもややこしい。ずっとこのままでいいというのは私には理解できません。この辺りの、縦割り行政、幼保二元化問題が、アンケート一つとっても影響を与えているのです。多くの先進国はこの幼保一元化を進めましたが日本は政治の力では既存の行政組織の岩盤にぶつかって動きません。

その矛盾は他にもいっぱいあって、目につくことだけでも幼児教育は無償化になりましたが、満3歳以上から。でも幼稚園は2歳児就園クラスで満3歳になったら無償化ですが、保育園はにこにこ組で満3歳になっても、わいわい組にならないと無償ではないですよね。それから保育園も幼稚園と同じように教育機関であるとなっています。ちっち・ぐんぐん・にこにこも教育機関なのです。それなら無償化して欲しいものです。

近く子ども庁ができますが、この二元化論は棚上げが決まっています。日本は色々なものを先送りしながら取り繕ってきましたが、日本というシステムは相当にガタがきているんじゃないでしょうか。

 

子どもの心の動きをウェルビーングで捉える

2021/09/06

この図は米国の心理学者マーティン・セリグマンの「ウェルビーイングの5つの要素」PERMA理論。

(図は人材派遣会社パーソルのホームページから)

私は「子どもの姿の捉え方」に、その人の価値観を感じます。子どもがどんな行動を選ぶか、いつそれを始めていつ終わるか、見える姿の動きに注目しがちです。今日は朝、どのクラスも久しぶりに散歩に出かけたのですが、たとえば外へ出かけるお支度をしようとすると、水筒を持って、帽子を被って、靴をはいて・・次々にやることがあります。それが上手に自分でできるようになっていきます。食事の時間になったら、遊びを終えて、おもちゃを片付けて、手を洗って、食べる場所へ移動して・・・ここでも次々にやることがあります。

集団の生活であろうと、一人ひとりの生活が基本になっています。私たちは一人ひとりの選択、判断、決定を尊重しようとしているのですが、目を向けがちなのは次々の移りゆく行為における「見える姿」になりがちです。でも本当に目を向けてあげたいこと、寄り添ってあげたいことは、その時々の「心の動き」の方なのです。

いま、実習生がきています。毎日その日誌を読んでいるのですが、土曜日の実習日誌にそのテーマに関するエピソードが載っていました。遊びから食事へ移っていく時の場面です。他の子どもたちは食事のテーブルへ移動しましたが、Mちゃんはある遊びを続けています。遊びを終えてから食事にしようと思っているらしいのです。当園ではそうした時、遊びの自立の姿として「自分で初めて、自分でお終いにできる」という言い方をしています。

この場面なら、「自分で遊びをお終いにできる」ように支えることが援助です。さて、皆さんならどうしますか。実習生は、本人がご飯の時間になったことはすでに気づいていると捉えていました。それなので、あとは自分で遊びをお終いにするのは、きっと最後までやってしまったら、そうするだろうと予想しています。素晴らしい。

このような子どもの姿の捉え方を、保育士には期待されています。子どもの姿を理解することが、次の行為の予想になり、その上で援助を考えるという流れです。

そこで今日、私が母親との会話で思い出すことがあります。私が6歳の頃だったと思います。土曜日の午後6時からテレビで「巨人の星」をやっていました。その頃、ちょうど晩御飯になるのですが、母親の「ご飯よ」の声が聞こえます。でもちょうど星飛雄馬が花形満と勝負している真っ最中です。ここでテレビを途中でお終いにできるわけがありません。「つづく」がで出るまで、画面に釘付けです。

その頃の私は「は〜い」と返事していません。ご飯よの声は聞こえていても、今は行きたいくないから黙っていました。「もうすぐいく」とも返事していません。せっせと晩御飯の準備をしている親の気持ちを考えれば「後ちょっとで終わるから、待って」とでも言えばまだしも、黙っているのですから、幼い時のわがままな心理とはこんなもんだなあと、我が身を振り返ります。

さて「心の動き」の話ですが、土曜日のMちゃんは遊びが完成した時「これママに見せるんだ」と呟いたそうです。遊びが終わった達成感の中に、こんな「見てもらいたい人の顔」が浮かんでいるんだと思うと、ちょっとグッとくる話なのです。私たちは行為で子どもの姿を捉えがちですが、その時々の「心の動き」を捉えることで、何が大切なことなのかが、変わって見えてくるように思います。その「心の動き」を捉える視点の5つが、園だより9月号いの巻頭言で紹介した5つのウェルビーング(しあわせな状態)の視点じゃないかと思っています。

東京2020パラリンピック閉幕

2021/09/05

今日9月5日(日)で東京パラリンピックが閉会します。昨年春、東京パラリンピックが始まったら、子どもたちが「ボッチャ」をやるんじゃないか、とイケヤで売っていたボッチャのおもちゃセットを買ったことを思い出しました。そのボッチャで活躍した杉村英孝選手について、3年間取材してきたというNHK放送レポーターの千葉絵里菜さんが次のように語ってたからです。

「杉村さんは私と同じように脳性麻痺で、人の力を借りなければ、生活ができません。でもボッチャのコート上では、誰の手も借りず、自分で選び、自分で決めます。杉村選手はボッチャこそ、自分らしさを出せるスポーツだと言っていました。そして、同じ障がいのある人たちに、こうゆう世界もあるんだよ、ですとか、こういうすごいプレーができるんだよ、ということが伝わってくれたら嬉しい、とも話していました」

障がいがあってもなくても、その人らしく何かができるように選択できること、自立とは支え合って生活するためにある(幼稚園教育要領「人間関係」のねらい)ことの素晴らしさ伝えてくれます。人が多様であるということは、生き方の選択肢も多くなる必要があります。オリンピックよりも、パラリンピックの方が種目の数は多いのですが、同じ卓球なら卓球でも色々な種類が用意されています。支える人も多くいることがわかりました。

この話は象徴的だなあ、と思います。スポーツそのもののあり方も考える機会にもなりました。実際に行われているスポーツの裾野はものすごく広く、放送されることのない、たくさんの種類が作られ、そして楽しまれています。

この話を保育に移すとどうなるのでしょう。思い出すのはやはり「子どもたちが100人いたら、そこには必ず100の言葉がある」と言った、イタリアの幼児教育実践家で哲学者で詩人だったローリス・マラグッティのことです。彼は、それを述べた時代に、こう続けました「そして99が奪われてしまう」と。当時の幼児教育を痛烈に嘆いたのでした。

この「人間の多様性への尊厳」宣言は、今でも幼児教育の世界に影響を与え続けています。彼はその市の教育長になり、彼の名前のついた研究センターもできています。そして今でも公立の幼児学校で60年以上に渡って続いています。そして彼の考えに基づく保育は世界中に広がっていったのでした。

それでも日本でなかなか広がらないのは、多様性を豊かに保障するためには、素晴らしい先生の「数」が必要だと言うことが、ずっと無視されてきたからです。戦後1度も最低基準を改定したことのない日本では、リアルにユートピアのままなのです。すいません、またこんな愚痴をこぼしてしまいました。

藤森先生からのメッセージ

2021/09/03

感染症などで納涼会に参加できなかった方のために、今日9月3日から、お迎えの時間に時間と空間の間隔を空けて、ヨーヨー釣りとピンボールを楽しんでもらうことを始めました。

ちょうど、今日、藤森平司統括園長から次のようなメッセージが届きました。

「日本全国、いや、全世界では、新型コロナに翻弄されています。どの国においても、効果的な対策を行なえているところはなさそうです。しかし、ここは、何とか乗り切っていかなければなりませんし、じっとただ引きこもっているだけでなく、十分な対策を取りながら、前向きに行動していくことが大切です。そんな大人の姿を子どもたちにも示していきたいですね。」

じっとただ引きこもっているだけの姿ではなく、十分な対策を取りながら、前向きに行動していく姿を子どもたちに示していきたい。

こういうメッセージに私たち保育園の職員は励まされます。

その一方で、「前向きな行動」の中には、保育園に外部の方と連携することも多いので、そこで人的環境については、どんな「十分な対策」をとっているのかをお伝えしておきます。この点については、まず、人の尊厳を損なわないこと配慮しています。いまテーマになっている感染対策としては、職員のワクチン接種の状況、行動履歴を確認しています。

実習生は大学からのPCR検査の陰性証明、各種証明書、行動履歴、守秘義務の誓約書など文書でもらいます。アルバイトの学生も、私が知っている大学の先生から推薦をもらったり、実際に私が教えたり指導したりした方を選んでいます。また他の園からの転職などの場合は、前の職場での園長を私が知っていることが多いのですが、本人の評価を確認しています。

また感染対策に併せて、色々な意味で小さい子どもと接するにふさわしい人なのかどうか、職員の採用や地域の関係者と連携をとるとき、必ずその人や団体の評価や評判を確認します。信頼できる人しか園児に接することを許していません。保護者アンケートでその辺りの心配を感じる内容をいただきました。

そうした人的環境は、不審な人をふぜぐ垣根の役割もしてくれます。私はこれまで千代田区の人、地域の人、大学の人、アーティストなどかなり色々な人々とのネットワークを作ってきましたが、怪しい人の防ぐためにも、信頼できる人々との連携は頼りになると思っています。

現代社会は人間関係づくりが下手になっています。SNSでは相手が信頼できるかどうかの判断はできません。確かな人から人への繋がり方を若い人は学ぶ必要があります。そうしたモデルを示すのも、大人の役割だと考えています。

ハエトリグサをめぐる学びの事例を考える

2021/09/02

話は昨日の続きです。これからの小学校以降の学びは「個別最適な学び」と「協働的な学び」が組み合わさった学習が期待されています。それを考えるための事例として、わいらんすいのブログに紹介されている「ハエトリグサ」をめぐる子ども二人の「知らせ合う姿」を考えてみましょう。

この図は、昨日お伝えした子どもの図の左側です。

左の「3段重ね」の一番上は「知識」、2段目は「スキル」、3段目は「態度と価値」となっています。

これが混ざり合って(より合わさって、ねじり合わさりながら)「コンピテンシー」が形成されていくことを表しています。コンピテンシーとは、ほぼ「能力」「力」のことです。

ここで注目してもらいたいのは、「態度」には個人的な態度の他に、協力的な態度が含まれていることでしょう。実物の「ハエトリグサ」、図鑑、それに詳しい友達、気心の知れた仲間、そして先生の存在。これらが「より合わさって、ねりじ合わさりながら」興味の対象が広がったり、調べる方法の知識やスキルを深めたりしているようです。

また「え〜っと」と考える姿も見られますが、子どもは何かに気づいたり、感じたりしたとき、大人のように頭の中だけで考えることはできません。手で触ったり、動かしたり、「ああかな、こうかな」を試します。試行錯誤です。小さいうちは「探索活動」というと、わかってもらえるでしょうか。

これはとても強い衝動で、これを押し留めようとすると、子どもから強い抵抗にあうことでしょう。子どもの興味や関心の最初の表れは、何かに気づいたとき、試行錯誤が引き起こされるのです。手足を使って「試すこと」と「考える」ことが混ざり合っています。

現行の保育所保育指針では、少し要約すると、知識は「豊かな体験を通じて、気づいたり」であり、思考力は「気づいたことを使い、考えたり、試したり、工夫したり」することだと説明されています。

この姿と子ども同士のやりとりも重なることで、子どもたちの姿は複雑に見えるのですが、さらに難しくさせるのは、子ども同士の関係のスキル(我慢したり、譲り合ったり、順番を待てたり、言葉で伝え合ったり・・)もそこで育ちます。

ちなみに、このような姿を捉えて遊びを発展させていくためには、一人の先生が2〜3人ぐらいの少人数の子どもを相手に、じっくりと見守ったり発展させたりする人的環境がどうしても必要です。

特にいざこざを通じて社会的スキルを育てる機会までその場に持ち込むと、学びの場は混乱してしまいます。社会的スキルが未熟な状態の何人もの子どもたちの中に、風船を投げ渡して自由にさせると、みんなが我先に「試行錯誤」を始めてしまい、ただパン!と割れて終わってしまうでしょう。

そのような子ども集団の理解に伴う学びの保障は、経験豊かな保育士がいなければ難しいということになります。単純に子どもの主体性を尊重するからといって、ただ興味をひく教材を与えるだけでは、混乱を生んで熱中できる遊び(つまり学び)にならないこともあります。子どもの状態と教材の間で起きることを見通しながら、子どもの環境(教材)の再構成は作られていく必要があるのです。

ハエトリグサをめぐる二人の学びは、そうした条件を満たしていたのかもしれません。

 

アキバ分室で初めての睡眠講座

2021/09/01

9月1日(水)、今年4月に万世橋にできた「子育てひろば」で、初めての睡眠講座を開きました。講師はお馴染みの永持伸子さん。子育てひろばは、基本的に毎週水曜日の午前中に開かれているのですが、そこでいつものようにZOOMでリモート講座を開きました。ただパソコン画面をプロジェクターで映し出し、音声もスピーカーで流して、そこへ赤ちゃんと一緒のお母さんたちが、一緒に講座を受けることができるようにしてみました。

会の始めに会場の方から睡眠のことで聞いてみたいことを尋ねると・・

「夜の授乳をそろそろ終わらせたいのですが、どうやったらいいですか」とか「昼間のお昼寝はどんな状態が好ましいのですか」など、いろいろな?(はてな)がいっぱいでした。

多くの人にこの講座のことを知ってもらうためにも、感染対策を講じた子育てひろばで開催してみたのですが、睡眠講座を開いてみると、はやり「対面」のよさが分かります。画面越しでは伝わりにくいコニュニケーションがあることがよく分かります。ただ、コロナ禍や距離を気にしないで済む、家から参加できる、夫婦で一緒に参加できるなどリモートの良さもあります。

今年度前期は9月7日(火)と21日(火)で一旦終了します。リピーターの方もいらっしゃいます。子どもの成長に従って睡眠のポイントも変わります。気軽に何度でも参加してみてください。お申し込みは千代田せいが保育園のメール(c.seiga@chiyodaseiga.ne.jp)までどうぞ。

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