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園長の日記

光・見守る・スクリプト

2021/07/20

人は色々なことにベスト3とかベスト5などを作りたがるのはどうしてでしょう。古くは「三種の神器」やキリスト教の「三位一体」に仏教の「仏法僧」、江戸時代の「御三家」や戦後の「3大財閥」など、何かと3つ揃って初めて何事かが成立するというような<3要素>を発明してきました。相撲でも三役揃い踏み、が土俵の華になります。実は私も3大要素なるものを見出しました。それは夜の睡眠の質についてです。

今日は第4回目の「睡眠講座in千代田せいが保育園」をズームで開きました。参加者は3名で、千代田区からも2人のオブザーバー参加がありました。これまで何度も聞いてきた内容なのですが、良質な睡眠を子どもに保障するには、いくつかの3大要素があるような気がしました。一つは「光と闇」です。私たち人間が地球上の生物として進化してきた必然性からくるものです。特に光とホルモンの関係を良くすることです。具体的には朝日とともに起きて日没と共に眠る。朝に光を浴びてセレトニンを生み出し、それが夜の睡眠を誘うメラトニンの材料になります。また睡眠時間は長さもさることながら、時間帯が大事といった、人間が生き物であり地球の自転という生態系の中で生きてきたことによります。体内時計もそうやってできました。

二つ目は「睡眠も見守る」ということです。親子関係の要素です。たとえば、まだ夜にまとまって寝続けられない数ヶ月の赤ちゃんの時期、夜に何度かよる目覚めてしまう時に、「赤ちゃんは寝たがっている」と思ってあげて、安心させるだけにする。自分でまた眠りにつく力があると信じて、おっぱいなどのご褒美はあげない。夜の授乳欲求と睡眠欲求を分けて対応すること。これを一緒にくっつけてしまうと、ご褒美がないと寝ないことになってしまいます。欲求は満たしてあげることで情緒は安定するので、必要な養護=ケアなのでですが、肝心なのは、睡眠欲求と食欲をまぜこぜにしないことです。助産師さんたちのアドバイスとちょっと違うかもしれませんが、お母さんの健康を保つためにも、そうした方がいいでしょう。

三つ目は、体の習慣化。本人がその気になることから、何も考えなくても体がそうなっていくようにしてあげること。よく「スクリプト」と言いますが、それが出来上がると子育ては楽で楽しくなります。これには、夜遅く帰ってくるお父さんが混乱させているケースが多々あります。ぜひ、ご夫婦で夕方から夜の過ごし方を「子どもにとって」という視点で見直すことが大切です。例えばですが、夜ご飯はさっと軽く済ませてテレビは消して、お風呂に入り、上がったらダウンライトになっていて絵本タイム。だらだら楽しいお話タイムで他愛のない安心と満足の時間を5分でも10分でも作る。毎日同じ順番にして体が次を予想してそうしていくようになっていきます。赤ちゃんの頃から、そうしげあげると子どもも親もとても楽に生体リズムを作りやすくなります。この習慣は一生の宝物です。

光、見守り、スクリプト。この三要素が良質な睡眠の要のようの思えてきました。

日体大教授の野井真吾さんは「光・暗闇・外遊び」を提唱しています。7月6日の「園からのニュース」(保育アーカイブ「早寝早起き」)も参考にしてみてください。

オリンピック開幕まであと4日

2021/07/19

オリンピック開幕まであと4日。感染のスピードが増しています。増加カーブの勾配が急です。このままだと「あっという間に3000人を超えるでしょう」という専門家もいます。

それに引き換え、駅も電車も混んでいるし、人の流れは増えています。いつ「まずい!」と気づくか。がツン!とした何かが起きないと、きっと目覚めることはないということででしょうか。

あるいは、重症者がそう多くないとか、ワクチン接種が進んでいるとか、新しい治療薬も承認されたなど、なんとなく「大丈夫」という空気で覆われているということでしょうか。

いずれにしても、このまま行動は変わりそうもありません。これで本当に重症者や死者は増えないのでしょうか。とても心配です。

保育園でも1ヶ月後の8月21日に納涼会を開く予定にしているのですが、それまでに終息の目処が立つかどうか。深刻な事態が報道されても、同時に伝えられるオリンピック報道で相殺されて、現状は何も変わらない、という状態が続いていきそうです。

せっかくオリンピックが東京で開かれるのですから、保育では少し世界に目を向ける活動を取り入れます。とにかく、私たちは、これまで通り感染対策を怠らないようにしましょう。

 

 

保育における物的環境も発達理解が基本に

2021/07/18

研修にはいくつか種類があります。形態で分けて分類すると、園の中で行う園内研修や外へ出かけて受ける研修があります。あるいは、仕事の中で受けるトレーニング(OJT=オン・ザ・ジョブ・トレーニング)と、職場を離れたトレーニング(OFF-JT=オフ・ザ・ジョブ・トレーニング)という言い方もします。いずれにしても研修で大切なことは、学んだことが保育実践に生かされることです。研修を受けて終わり、では受ける意味がありません。

そこで学んだことが生かされるためには、いくつかの条件がある気がします。最も大切なことは、たぶん動機です。学びたいという意欲があるかどうか。その意欲の原因はいろいろあって、保育実践の中で直面することが最も大きな動機になるでしょう。例えば、どうしたらいいか課題にぶつかっていたり、困っていたりすると、それを解決するために研修を受ける、学ぶということがあります。あるいは、保育所保育指針が改定されるなど、新しい保育内容ができて、知識や技術をアップデートしなければならない、ということもあります。

しかし、これらの理由は外部要因であって、その要因がなくなったら学ぶ動機が薄れてしまうでしょう。従って、最も強い学びへの動機は、学ぶこと自体が喜びであるようなものであったり、学んだことを活かして実践すると、いいことが起きることであったりする経験を持っている場合です。そうなると、学び続ける意欲が生まれてきます。最も良い研修とは、そのように一人ひとり職員が、学びたいから学ぶという、主体的な学びになることです。

昨日17日は、内部とも外部とも言い難い研修がありました。今年度3回目の第55回保育環境セミナー「物的機環境編」で、講師は藤森平司統括園長です。保育環境には空間や物や人などがあるのですが、今回は「物」のあり方を学びました。参加方法はリモート(zoom)です。保育室の物は家具にしても遊具にしても、掲示しているものにしても、全てそこには保育上の意図があるのですが、その意図は「子どもの発達から見てどうか」という視点から出来ています。そのポイントを0歳から6歳まで、発達過程ごとに復習しました。

藤森先生の講義を受けていると、頭が整理されます。整理されるというのは、自分が既に理解していることと、知らなかったことの境目がくっきりしてくる感じです。ここに未知の領域がある、ここに曖昧な部分がある、ここは確かにそうだった・・・というようなリアルな感触です。例えると丸いボールの球体のようなものをイメージしてもらうとすると、知っていることがボールの内部です。確かにそうだ、と根拠も含めて人に説明できるような部分がボールの核のところになります。ボールの表面に近づくと曖昧な感じになってきて、ボールの外側は未知の領域。そこには広大な空間が広がっている感じです。肝心なのは、このボールの表面ですが、既に知っていること(既知)とまだ知らないこと(未知)の境目になる部分です。

例えば、「子どもは発達にあったものを自分で選べる」という話は、私は根拠を持って説明できます。自発的使用の原理や、発達過程の概念を具体的な事例で説明できます。くるくるチャイムとテレビゲームを置いておけば、赤ちゃんでもくるくるチャイムを選ぶはずであり、歩行の確立期には坂道や細い道を歩きたがるといったことを説明できます。また関係性の発達の中でピア・ソーシャルスキルが発達するための敏感期が2歳ごろからピークを迎えるという最近の脳科学の知見を知っておけば、根拠を持って「平行遊びの新しい意味」や「2歳児クラスを丸いテーブルにする理由」を説明できます。

ところが、それなら睡眠についての脳の敏感期はいつ頃だろう?とか、思いやりの発達に必要な乳児の体験はどんなことだろう?といった疑問が次々と浮かんできます。ボールの中身(既知)が増えると、ボールの外側(新しい未知)が増えるのです。ちょうどボールの体積が増えると表面積が増えるのに似ています。知れば知るほど、わからないことも増えるのです。その学びが実践に生かされるような「実践知」なのか、それとも根拠を確かなものにする研究的な学問知なのかは、その人の関心の志向性で変わってくるでしょう。私は研究者ではないので、研究者の学びから学ぶことになります。

育ちを「支える」という意味

2021/07/17

子どもにとって自分からは言えないけど、大人に言ってもらえたことで、救われた思いになることってあるだろうなあ、と感じます。せいがの森保育園の頃なので、ずいぶん前のことですが、散歩から帰ってきた子どもたちの中に、玄関に一人立ちすくんでいた4歳の女の子がいました。泣いているだけで、部屋へ入ろうとしません。先生たちも「どうしたの?」と聞いてはいるのですが、泣くばかりで答えてくれないので、諦めて「お昼ご飯を食べに行こう」と誘ったり、気を紛らわしてあげようと、いろいろなことに注意を向けさせてあげようとしています。でも、大切なことを言ってあげていないと感じたので、私は次のように言いました。すると、その子は泣き止もうとして、私に気持ちを打ち明けてくれました。私はこう言ったのです。「部屋に入りたくないなら、入らなくていいよ」と言い、そして「困っていることをあったら言ってごらん、手伝ってあげるよ」と付け加えたのです。

その子は涙を堪えながら、玄関の方を振り向いて、今来た道の方をみて、ミミズを無くしたと話してくれました。どうしたらいいか分からなくなって泣いていたのです。私は一緒に探しについて行きました。ミミズは見つからなかったのですが、その子の気持ちは切り替わっていました。泣いていた時はきっと、自分がどうしたらよいのか、混乱していたことでしょう。でも人間には言葉があります。言葉は気持ちに形と安心を与えます。自分がどうしたかったのか、自分の気持ちが自分で見えるようになり、フリーズしていた気持ちがまた動き出したのです。

保育は「育ちを支える」という言い方をします。この「支える」というのは、何をどこまで支えるといいのでしょうか。それは「支える」のですから、代わりに全部やってあげるのではありません。主体は子ども自身です。子どもが自分でやるという主導権は持ちながら、それが叶えられるように、あるところまで支えてあげるということです。玄関に立ちすくんでいたその子にとって、「いま部屋に入らなくていいし、いなくなったミミズを一緒に探してもらえる!」と思えたら、そこから「自分で」やってみようという気持ちが生まれるでしょう。支えるのは、気持ちや思いを理解してあげたり、共感してあげるところまで、が大事なのです。

同じことが、今日の「ちっち・ぐんぐん」のブログにも書かれています。「タオルでふく?」と聞いてあげることは、案外できそうで、できないことかもしれません。大人の方が気持ちに余裕がなかったり、忙しく感じていたりしたら、そこまで歩み寄れないかもしれません。子どもが黙っているけど「自分もやってみたいなあ」と感じているように見えるとき、「タオルでふく?」と聞いてあげることは、子どもにとっては「やっていいよ」とほぼイコールに聞こえるはず。自分の気持ちがわかってもらえた、気持ちが通じた、私の気持ちに触ってもらえた、と感じたのと同じですから、質問形であっても、それは承認されたのも同然の、力強い後押しになったとこでしょう。あとは「うん」と答えやすいし、そこまで支えてもらえたら、もうすぐに行動に移ることが出来たことからも、それがわかります。

今日は土曜日で、登園した子は少なかったのですが、午後のおやつのあと運動ゾーンで2時間ほど遊びました。園長ライオンや、三びきのこぶた、警察と泥棒などのごっこ遊びと、円盤に乗っての宇宙旅行などを楽しみました。言葉の力は大きくて、子どもたちの心を、想像と物語の世界に連れて行き、そこで心の羽を存分に広げていました。そんな遊びに夢中になっている時、子どもの心のシワが伸びて、音を立てて根から水を吸い上げる樹木の芽のように、気持ちがふっくらと、ふくらんでいくことがわかります。こんな時間が絶対に子どもには必要なのです。子どもは、本当に心の底が躍動するような時間を求めているのです。

ウェルビーングとしての水遊び

2021/07/16

教育目標は子どもの姿で表すことが教育界の常識なのですが、保育目標も同じです。千代田せいが保育園の保育目標は「自分らしく 意欲的で 思いやりのある子ども」です。この言葉は私がせいがの森こども園時代に、作ったものですが、そのとき苦心したのは、能力主義にならないようにすることでした。どういうことかというと、発達というのは「その人らしさ」が、ありのままに発現していくことなのですが、それは環境との関係で変わってきます。これをウェルビーングといいます。私はこれを「自分らしく」と表現しました。

たとえば今日、プールに入って遊んでいる子どもたちを見ていると、バシャバシャ水飛沫をかけあったり、水に潜ったりして遊んでいました。「イルカグループ」です。

これを選んでいるのは、3歳の子も、4歳の子も、5歳の子もいました。水との関わり方が、この子たちには「合っている」ので、どの子も「自分らしく」遊べていたのです。顔に水がかからずに遊びたいなら「カニグループ」で遊べます。潜ることはないけど、顔が水に濡れるぐらいは平気なら「ラッコグループ」が合っているのです。

この3つに優劣はありません。イルカの方が何がが優れているということではありません。泳ぐことができるとか、潜れるとか、そういう「ものさし」でみれは、蟹よりラッコやイルカが「優れている」ということになります。でも蟹は早く泳ぐことができることを求められているわけではなく、蟹らしく水と共生しています。ラッコも同じです。別にイルカのように、スイスイ泳げることが水との関係ではありません。蟹らしく、ラッコらしく、イルカらしく水と共生して豊かな活動をしているのと同じように、それぞれのグループらしい遊びができるし、その遊びで得ている力も大きいのです。

人間の能力を一つの「ものさし」で比較して並べるということをしてはならないのです。人の個性は多様です。外部から期待される能力を誰もが獲得するように期待されてしまうと、その力に向いていない個性は気の毒なことになってしまいます。人間の特性は多様にできていて、その特性に向いた学びや職業を選択できるようになるとよいのです。人間の特性は、旧石器時代からの長い時間をかけて環境に適応して進化してきた脳と身体の賜物です。その特性はそう簡単に変わるものではありません。

しかし、現代の生活環境は、人工的に激しく変わりすぎました。自然の産物である人間に、その特性に合わないような生活環境を押し付けてはいけないのですが、残念なことにそうなってしまいました。現実はこの200年の間、産業革命以降にできた工場労働者の「能力」を評価して選別するために始まった「学校」での学力評価は、今でも形を変えて「産業界」が「ものさし」に影響を与え続けています。まだ「自分らしく」に合った学びの環境を取り戻していません。

私たちが生命体である以上、そこには「意欲」があって、それが働くように生きることが幸せな人生に通じます。意欲的であるということは、生き生きとした生命の躍動ですから、そうなることは能力主義ではありません。誰もがもともと持っているものを発現することです。そして「思いやり」は、まさしく個人の能力に還元するものではなく、他者がいて初めて自分が成り立つような関係です。思いやりは、本来、個人的な能力として測定することはできないものです。個人の能力ではなく、関係の質の発達と捉えるべきものなのです。

発達障がいにしてもそうです。多動性は活動性が高いと思えばよく、衝動性は瞬発力が高いということです。スポーツ選手や起業家には、そのような個性の人がたくさんいます。先日、家具メーカーの株式会社ニトリの創業者である似鳥昭雄さんが「最近、私はADHDだということがわかった」とテレビで話していました。私がよく知っているIT関連の社長もADHDです。探究心が求められる研究者や科学者には、こだわりの強い特性を持っている人が成功しています。脳と身体に合っていない環境とのミスマッチ。このデザインをし直すことが、本来の教育改革でなければならないのですが、残念ながら、そうしたウェルビーングの視点からの教育改革は始まる気配がありません。

 

 

いろんな形

2021/07/15

縦7本、横11で合計77本の棒が立っているボードに、輪ゴムをひっかけて形を作って遊びます。四角や三角などのいろんな形。どんなことを考えながら、やっているんでしょう?

これは、家や車のようにも見えます。やってみているうちに、その形から何かを思いつきたりすることでしょう。

「また、できたよ」とHちゃんが見せてくれました。

今度は三角が6個と四角が4個。三角の向かい合い方が違います。

形そのものを作っているのですが、違う並び方にしてみくたくなったのでしょうか。こんな法則性や決まり、対称性等の抽象的な図形の性質に関心が持てるのが年長さんらしい。

直線でできる形のいろいろ。

長い輪ゴムから長い紐に変えてみたり、一筆書きを作り始めたり、迷路を作ったりと、色々な発想が生まれる図形遊びです。これから、どんな形が生まれるか楽しみです。

 

絵本「ようこそ うみ」へ、ようこそ!

2021/07/14

こんな絵本の楽しみ方は、どこにも書いてないと思うのですが、今日やってみました。プロジェクターに絵本を映し出して、子どもたちと会話しながら、絵の細部を拡大して、確かめながら読み進めたのです。そしたら、かなり受けました。

どうしてそんなことをしたのかというと、絵本がそうしてほしいと訴えていたからです。絵本は、文・中川ひろたか、絵・村上康成のゴールデンコンビによる『ようこそうみ』。

大人2人と子ども8人が砂丘のような丘を駆け上ると、そこに海が開けていることに「おーっ」と驚いたり、サンダルを集めて空に放り投げたら、サンダルやビーチボールが雲に引っかかったり、それを取りに雲に乗って遊んだり・・・こんな他愛のない話なのに、子どもたちはゲラゲラ笑って大満足!ナンセンスなおかしみって、とにかく子どもの心をくすぐってやまないのでした。

 

 

かたつむりくんのうんち

2021/07/13

今日のテーマは見守る保育の「見る」の意味です。

今日のちっち・ぐんぐんのブログを紹介します。顔の写っている写真を外し、名前をイニシャルに変えました。どうしてこのブログを紹介したいのかということは、最後に説明します。

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牧野先生が、ちっちぐんぐん組に かたつむりを連れてきてくれました。
箱をのぞきこんでみんなで観察です。みんな何やら思い思いにおしゃべりしながら眺めています。
・・・と、透明のフタの部分に、なんだか黒いものがついているのを見つけた子どもたちです。

「かたつむりのうんちかもね〜」と話していると、Sくんが早速ティッシュを持ってきました。

そして、ゴシゴシ。

続いて、Aちゃん、Rちゃんも…。

かたつむりのうんちがついていたのは、フタの裏面なので、どれだけ拭いても取れないのですが、それでも、一生懸命拭こうとする姿と、ティッシュで拭いてあげようという その発想がかわいらしい、ぐんぐんさんでした。

7月13日の「ちっち・ぐんぐん」ブログより

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どうして、このブログを紹介したいのかというと、こんなことを感じるからです。

「一生懸命拭こうとする姿と、ティッシュで拭いてあげようという その発想がかわいらしい」

この子どもたちの一途さや健気さ。可愛いですよね。

それにしても、そこまで一生懸命になるのはどうしてなんでしょう?

この行動を支えている心の原動力は、生き物へのケアです。

子どもらしい発想の中に、ケアリングが見えるのです。

かたつむりくんへの愛情、気遣いというものが、ここには息づいているのです。

大人になってしまったらできない(やらない)行動です。

私たち大人が、このような子どもの「心の動き」をキャッチできるかどうか。

こんなところに成長を感じることができるかどうか。

こんな視線で子どもがやろうとしている行為をちゃんと見とっていくこと。

これが「本当はどうなんだろう」を大切にしていく保育精神です。

4回目の緊急事態宣言はじまる

2021/07/12

今日12日(月)から東京都は4回目の緊急事態宣言下に入りました。東京都から千代田区を経由して保育園へ届いた通知の内容は、一言でいうと「基本的にこれまで通りの感染対策を怠りなく!」というものです。それへのコメントは差し控えるとして、私もワクチン接種1回目を受けて左腕が上がらない状態ですが、熱も出ず問題なく出勤できました。こちらについてコメントするなら「過去3回の緊急事態宣言と違うのはワクチン接種をして迎えたが、果たしてデルタ株やラムダ株に効くのかな、という不安は拭えない」ということになります。

もうすぐ梅雨が明けそうですが、今週末に予定していた屋形船乗船会が延期になってもオリンピックはやるのですから、9月には実現させるつもりでいます。多くの人がデータなき空気によるリスク判断に違和感や不気味さを感じていても、曖昧に前に進んでいく日本独特の空気は、やっぱり気持ち悪いものです。声高に煽る人も、背を低くして邁進する人も、命を人質に居丈高に諭す人も、いずれも結論ありきの姿勢ばかりなので、他者への信頼と対話を基本とする「保育の原理」とは、水と油だなあ、と感じています。

保育は「本当はどうなんだろう」(DND=佐伯胖)を常に抱えながら、他者と向かい合います。他者とは子どもであり、また大人であり、さらに自分でもあります。子ども理解も自己評価(自己のと対話)も「本当はどうなんだろう」が深いかどうかが、保育の質の差になっていくからです。最初に結論ありきの言説がつまらないのは、本当の気づきや発見に乏しいからです。子どもとの対話が楽しいのは、気づきや発見がたくさんあるからで、子どもの姿にしても子どもの言葉にしても、対話を重ねることで、そこに新しい出会いが生じるから面白いのです。その事例がクラスブログに出てくるので楽しいですね。

取材も深いほどいい意味で裏切られていたものですが、どうも今はストーリーが裏に透けて見えます。「本当はどうなんだろう」がいろんなところで浅くなっている気がします。

 

着がえる家(西尾美也)

2021/07/11

昨日10日の夕方、海老原商店で始まった「着がえる家」を楽しんできました。アーティストの西尾美也さんに案内していただきました。プロジェクト型アートになるのですが、たとえば千代田せいが保育園の年度末の行事「成長展」が子どもの作品展ではなく、子どもの成長そのものが作品であるような展示にしているのと同じように、服が作品であるだけではなくて(服の作品もあります)、服を着ることや着がえること、洗うことや干すこと、或いは服を作ることや服を交換するといった中にある「美」を、物やビデオやファイルや写真や家具や空間で、表現していました。

個人のパーソナルヒストリーからケニアの服屋さんまで、人と人、家族、1人の成長の記憶など、人間の営みの中に見られる服をめぐる様々な表象を体験できるインスタレーションになっています。

1階の奥の和室(山本歯科医さんのミニ講座を開いたところ)の部屋では、服をテーマにした絵本や、西尾さんのお子さんが描いた絵が展示されていて、テーブルに座り込んでお絵描きもできます。

9月5日(日)までの期間中に、いくつものワークショプが予定されているので、保育園でも参加してみようと思います。実際に服を作ってみるもの楽しいはず。服の提供は大歓迎だそうです。

東京ビエンナーレ2020/2021の一環です。チケットは全て体験できるパスポートあるいは個別鑑賞券があります。詳しくは公式ウェブサイトでどうぞ。

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