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園長の日記

青木尚哉さんの探求の凄み

2021/05/22

美と表現の関係を考えたくて、ダンサー青木尚哉さんと海老原義也さんの対談を聞いてきました。そして青木さんの「探求」の奥深さに驚きました。あのダンスは、これだけの努力と実践の中から編み出されているものなのか、という凄さに改めて深い感慨を覚えたのでした。

この感慨は「そのよさがわからないのは私のせい」だと、改めて思い致すようなことなのです。そういう世界は確かにあります。こちらがわかっていない、気づけていない、感じることができない、そんな美の世界かもしれません。食べ物に例えると、わかる人にはわかるワインの味、極めた人にはわかる野菜の味など、その手の「通の世界」の美に近いものです。まあ、私の思い込みかもしれませんが、探求され続けている青木さんの身体への迫り方には、それまで考え抜かれた技法の洗練があることに気付かされると、それはもう「納得せざるをえない重み」のようなものが迫ってきます。プロって必ず、こういうすごい深みを持っているものなんですね、やっぱり。

青木さんが開発したポイントワークは、門下生へ伝えるために体の動かし方をデジタル化したものでした。自らの身体の主要な場所40箇所に通し番号が振られ、そのポイントで形作られる点や線や面を自己意識することで、イメージ通りの動きを自らが意識化しているのです。しかも自らの身体とそれを取り巻く空間とも一体化したような身体感覚を獲得しながら、新しい自己意識と世界とのつながり具合さえも更新しながら舞う。なんと斬新なダンスでしょう。こんな実践理論をお聞きすると、これはもう生き方のポイントワークへと応用したくなりました。その前に、保育の地平をポイントワークの発想で再構築することができるのかもしれないと、ちょっとワクワクしたのでした。

ケアリングが見守る保育

2021/05/21

先生たちが「子どもの関わり方」を大事に見守っている様子に、私はとても安心します。子どもが対象をケアしていることを、大人がケアしているという関係が「見守る」ことの本質だからです。ここでいうケアとは、子どもが熱中して対象と「やりとり」が生じるような環境を用意してあげることも含まれます。その様子の報告がブログで続いています。

例えば、にこにこ(2歳児クラス)の子が、ぐんぐん(1歳児クラス)のおともだちの靴をはかせてあげている姿と、それを温かく見守っている先生の眼差し。そのかかわりに注目してブログに取り上げたいほど、先生がその育ちや「やりとり」に「善さ」を見出し、またその「やりとり」の中に自然な「思い遣り」の姿を描いています。

ここでいう「自然さ」というのは、協力することの自然さです。報酬系とは無縁な脳の働きが生じています。これは強い。褒められたり、励まされてやっていることではありません。承認欲求からの行動ではないのです。「大人の出る幕はありません」という言葉が、見守れていることを意味します。

そうなんです。私は研修会で見守る保育の説明を求められた時、大人が見守るのが大事なのではなく、見守れるように子どもが育つことが大事なんです、という話から入ります。そうなるためには3つの条件が必要ですよ、と。一つが子どもの主体性を尊重すること。二つ目が意欲的にかかわることができる選択できる環境を用意すること。そして三つ目が、子ども同士のやりとりが生じるような場を用意すること。この3つです。

これが「環境を通した保育」という意味なんですが、多くの保育園との違いは、大人が、いちいち褒めたり、子どもがことさら「みてみて」と承認欲求を求めてきません。子どもに自信が育ち、大人にかまってもらう必要性が減っているのです。子どもは困った時は先生が助けてくれるという「信頼」を持っています。先生の方も、子ども同士の世界に過度に介入しません。

わいらんすいの子どもたちが「生き物」に、こんなにも心奪われている様子が、数枚の写真に表れています。カブトムシの幼虫が土(腐葉土)に、モソモソと潜りこんでいく様子を、じっと見つめている表情。ここにはカブトムシへの愛すら感じますよね。

さらに私が感動し、微笑ましく思ったのは、ずらりと並んで虫に見入っている「佐久間橋児童遊園の背中」の写真です。これはすごく面白い。写真コンクールに応募したくなるような一枚です。副タイトルは「都会の自然、子どもたちが見つめているもの」です。こんなところに、子どもたちが熱中するものがある、という子どもの目線を大切にしてあげたい。この背中の先に何があるんだろうと、関心を持ってあげる大人でありたい。そこが大人が持ちたい子どもへの眼差しであり、心配りとしてのケアリング(思い遣り)になります。

 

何かになりきって遊ぶ

2021/05/20

子どもが本気で遊んでいるとき、ある種の共通した特徴を感じます。その方向へ深まっていくものです。それは「何かになりきってみる」という傾向です。その「なりきり」が徹底されていく中に、子どもは面白さを強く感じるようです。しかも、相手とのやり取りが必要で、働きかけると、その反応が戻ってくるという、相互性が豊かな方が盛り上がります。

しかも、子どもの編み出す表象の豊かさはものすごい物があります。子どもと本当に真剣に遊んだことがある方なら、かかわり方次第で、楽しさや豊かさがどんどん湧き出てくることをご存知だと思います。子どもの心が解放された時の精神の躍動感は、圧倒的ですよね。

「園長ライオン」「フラミンゴごっこ」「鳥のブランコ」などの幼児との遊びは、動物になってみる、という「ごっこ遊び」なのですが、こんなにも楽しそうに、嬉しそうにしている姿を目の当たりにすると、この欲求の強さは一体なんだんだろうと考えてしまいます。乳児も同じです。盛んにごっこ遊びを楽しんでいます。

保育学の構造に分け入っていくと、その根底には哲学があります。昔、村井実さんの自宅で「善さ」について話を伺ったとき、ソクラテスやプラトンにはじまって西田哲学まで、何がよいことなのかを徹底的に分析してたどり着いたものですという話を聞きました。私はシュタイナー思想に染まっている、神秘主義一辺倒の若かりし時代だったので、観念主義哲学をいくらこねくり回しても存在学にはならないのに、と不遜にも「ふーん」と聞いていました。

しかし、実際に保育という仕事をする立場になると、村井さんが提唱した「善さの構造」の意味深さがよくわかるようになってきました。その村井哲学の継承者である佐伯胖さんが紹介する認知科学に基づく保育観がまた、子どもの見方を刷新してくれます。そうやって見えてくる子どもの姿や保育の形は、新しい保育のビジョンを生み出してくれます。そこに保育学の深いところにある価値創造としての保育の営みに「触れる」面白さを感じています。

感触体験の意味

2021/05/19

ぐんぐん組の食用素材での「粘土」との出合い、楽しかったみたいですね。

最初は、おっかなびっくりといった感じです。

でもそのうちに、ストローを介して、ちょっとずつ近寄っていっている姿がいいですね。この接近の仕方がとっても大切で、「自ら」ものへ関わっていくプロセスをちゃんと大事にしていることになります。何事も、このプロセスに発達があるからです。

最後は手についている感触まで楽しんだようです。

さて、この「感触」ですが、粘土に限らず、水や砂や土や、あるいは手掴み食べの時の食べ物まで、いろんな時に子どもは「感触」の違いを確かめています。その経験が、素材に違いに対する向き合い方(姿勢=態度)を育んでいきます。その中には、手先の柔軟な使い方や、巧緻性の発達にも寄与するのですが、面白ことに、感触体験は、「心地よさ」という内面の体験になっているのです。

今日も、カブトムシの幼虫を観察している子どもたちが「触ってみたい!」といっていました。でもカブトムシの幼虫は触ると手にある病原体をうつしてしまうリスクがあるので、あまりさせるわけにはいかないのですが、手袋の上からでも手のひらに乗せてあげると、そのずっしりとした重さを感じることができます。

ところで、感触体験というのは、幼児教育ではどんな位置付けになっているのでしょうか?

ものの性質や特性の違いを楽しむというのは教育の領域「環境」の中にあるのですが、これはSETM保育の科学やエンジニアリングやアートの基礎体験を作り出します。「これって、どんなものなんだろう?」「もっと知りたい」という気持ちが、触りたい!という意欲になります。

乳児の場合は、保育所保育指針の3つの関わりの視点になります。

その中に、「身近なものと関わり感性が育つ」(精神的発達)という、関わりの視点があります。このような感触遊びは、ここの視点で見ることになるのですが、実は昨日までのこのブログで説明してきたように、子どもの方から一方的にものへ関わっているのではなく、双方向の「やりとり」が生じています。

この粘土の場合も、その素材の方から、ぐにゅっと形が変わること、穴が開くこと、ベタベタしていることなど、実にいろいろな性質や特性を「もの」の方が子どもに教えてくれているのです。

少し深入りすると、指針の説明の仕方では、子どもに「表現する力」が独立してあるかのように読めてしまう限界があるのですが、これは文学的レトリックの差異ではありません。ものへの(しいては世界への)迫り方という、生き方の根本に関わる差異なのです。

さらに人間存在をどう捉えるかという次元の「ものの見方」でもあります。子どもの方にだけ「表現する力」を無条件に想定して、この子は表現力があるだとか、無いだとかいう話にならないようにしたいものです。全くそんなものではありません。

 

 

アゲハの劇的な変化

2021/05/19

今日は感動的な事件が起きました。園のみかんの木で見つけた幼虫が、あおむしに変身したのです。朝はまだ茶色いフンのような姿だったそうですが、午後のお昼寝の頃には、鮮やかな緑色に変化していました。内線で教えてもらい、私は早速3階へ上がると、その変化を子どもたちが見逃すはずもなく、午睡の時間に起きている年長のすいすいさんたちを中心に、熱心な観察が続いていました。

何人もの幼児クラスの子どもたちが、よく見ようとして懐中電灯を当てて眺めています。しばらく見ていたすいすい組のYHさんは「やっぱり、これ死んだふりしている」と言います。繰り返し「園長先生、これ死んだふり」と笑って、そう言います。私が「怖がっているんじゃないのかな。カゴを揺すられて動くから」というと、「だってずっと動かないんだもん、死んだふり」と笑顔で楽しそうに言うのです。

その時、そうか、と気づいたのです。YHさんはその時、虫になっているのです。虫になってみたら、ずっと動かないのは「死んだふりをしているから」ということがわかったのです。虫の方が教えてくれたのであってYHさんが勝手に想像しているとはちょっと違うのです。この対象から語りかけてくるような「世界の開示」は、これまで子どもが模倣する「ごっこ」とは違います。YHさんが死んだふりをしているのではなく、ちょうが死んだふりをしているというのですから。自分が一旦ちょう(幼虫)の立場になって、そのちょうが「死んだふり」をしているという、2重性があります。

このようなことは、対象への心配りがあってこそ生じるのではないでしょうか。蝶への関心の深さがあってこその共感に基づく対象との対話です。これは大人の例で言うと、世界の真実や神の声を聞いた聖人の言葉や、世界の真善美を描いた画家、あるいは漢字の成り立ちを甲骨文字をなぞり続けて解明した白川静と同じアプローチに思えます。物事の学ぶプロセスにこのような、対象のものに「なってみる」という学び方があるとすると、何かを「感じ、気づき、わかり、できる」という分かり方とは違うものを感じるのですが、どうでしょうか。

見ている幼虫が、あの「はらぺこあおむし」であることを、子どもたちはみんな知っていることを付け加えておきましょう。茶色いうんちのような姿の幼虫と、綺麗な黄緑色のそれとは、子どもの共感力が違うだろうことも確かだからです。

 

実行機能と自分らしさ

2021/05/17

学びは面白い。面白いというのは「そうか!」と気づくような時で、混沌としている世界から何かの意味や構造を見出してくるような発見があるときです。この「おもしろさ」は、生きる喜びにもつながっていきます。

土曜日と日曜日に日本保育学会(倉橋惣三が創設)があったのですが、いろんな発見がありました。研究の醍醐味は、物事を首尾一貫して説明できたり、矛盾しているように思えたものが矛盾なく解消したり、お互いに影響しあっていくことが心地よかったりして、それが美しいと思えるような発見です。この4つは「善さ」(村井実)の定義そもものですが、それの視点で保育を振り返ると、いろんなことが見えてきます。驚きや感動にもつながります。

そんな「時」の流れの中で、自分の時を生きようとしているが「子ども」です。子どもは自分が自分であるために、必死で生きています。そんな「時」(セネカ)がたくさん生起するような人生だったら、忙しさを理由に時間を奪われずに(エンデ「モモ」)子どもたちの時を守ってあげられそうです。

子どものために、よかれと思って大人が作ったルールに適応できるかどうかが大切なのではありません。その差はあまり発達に関係ありません。何にでも適応できれはいいというものではなく、教育の歴史を振り返れば、何かに上手に適応できても自分自身を生きられず、もっと大きなものを失ったという事例はたくさんあります。

一見、バラバラに見えるような子どもの生活であっても、一見、子どもの言いなりになってしまうように見える場面であっても、そこには深い保育者の意図があります。本人が「何をしたいと思っているか」を本当に親身になって理解してあげようとすることを放棄してしまってば、それはもはや保育ではありません。ちゃんと子どもに聞く(倉橋惣三)ことをしないで、子どもがそうなっている行為だけを捉えていい、悪いを決めつけてしまってはいけません。

日頃そんなことを考えている時の日本保育学会で、脳科学に詳しい発達心理学者の森口祐介(京都大学)が、初日の基調講演で次のような枠組みを提示していたのです。

子ども自身が自分で目標を見つけて成し遂げいけるような脳の仕組みを「実行機能」と呼んでいます。「わたしを律するわたし」です。それを育むための保育が検討されました。面白かったのは、乳幼児に身につけて欲しいものが3つあって、その一つが、今言った自分を自分で律するための「実行機能」。2つ目が他者を理解する機能、そして3つ目が社会の中で「思いやり」を発揮できることです。

この3つは「自分らしく、意欲的に、思いやりのある子ども」の3つと関係するな、と感じたのです。その自分らしく自分であることを援助しようとすることが、まさしく実行機能を育てている事になると理解できました。他人との関わりの中でさらにそれが発揮されていくように、乳幼児のころからの積み重ねを大切にしたいものです。

 

 

モノをケアすることで性質や仕組みを理解していく

2021/05/15

ここ数日、わいらんすいの幼児では、水槽の高さを変えたり、ハサミの使い方を覚えたり、水や砂と出合ったり、色々なコトに熱中している様子が報告されています。こうした活動や遊びの姿の意味について、いくつかの視点から大切なことがいえます。

子どもたちは見たり、触ったりしながら、生き物や紙や水や砂の「性質や仕組み」に関心を寄せています。生物ゾーンにはメダカ、どじょう、ザリガニ、ダンゴムシ、カブトムシの幼虫などがいるのですが、らんらんのKAさんは「ダンゴムシが今はまだ寝ているの」と私に説明してくれるし、すいすいのTHくんは「ザリガニはお腹がへっているよ」とえさをあげる必要があると主張します。子どもたちは、生き物の立場になって、いろんなことを想像しながら、生き物の「命」を感じとっていることがわかります。

一方、ハサミで紙を切っているとき、「こうやったらうまく線の通りに切れた」という、使い方のコツを自分のものにしていっているのですが、そのときハサミと紙が、力の入れ方とか刃の擦れ具合とかを子どもに「語りかけている」と捉えることもできそうです。私たちはそんなとき、よく「モノと会話している」と表現することがありますよね。物の方がこちらに語りかけてくる、物の声が聞こえてくる、そんな物との関わり方を、子どもはよくやります。

水も勢いよく出すと、しぶきが飛んだり、強さを感じたりしているでしょうし、静かに流す時の音が小さいことに気付いたり、手で感じるものが異なることを試しているに違いありません。先生が教えてくれたのですが、そのとき砂場で子どもが心を奪われていたのは、砂が起こす「砂煙」でした。何かの拍子に立ち上ったのでしょう、子どもが驚きを持って感じ入っているのです。そんな世界は、大人の感性ではスルーしてしまうでしょう。

このように、子どもにとっての生き物、紙、水、砂は、ただ物としてあるのではなく、子どもの方へ「性質や仕組み」を明かしているという意味で、子どもの方へフィードバックしていることになります。一般にこのことは教育の領域「環境」のことだと思われています。

ところが、子どもが一方的に生き物や紙や水や砂に働きかけているのではなく、反対に物の方からも子どもに働きかけているわけで、双方向性のある「やりとり」になっていると解釈した方がいいんじゃないか、というのが日本保育学会の自主シンポジウムで語られていたのです。このようなとき、子どもはモノへの心配りがあり、物をケアしている事になるというのが佐伯胖さんの「ケアリング理論」(ノディングス)です。そうなると教育「環境」ではなく、養護(ケア)としての環境です(指針や要領はそんなことは認めていませんが)。

そうだとしたら、また子どもの「表現」の意味も変わります(転倒します)。ものが語りかけてくることを受け止め直していることが子どもの表現であることになります。この位置付け直しは、青木さんのダンスと同じなのですが、わかっていただけるでしょうか。マネキンとデザイナーのあれ、です。あの場合は、モノが自分の体なのです。自分の体と会話しているということです。それは自分の体を気にかけて(ケアしている)感じることが結果的に表現になっていくのです。外にある型を真似して同じ踊りができるようになる、という方向ではないのです。

 

したがって「美しい」と感じる感性は、大人が子どもに育てようとするものではなく、世界(モノの方)が子どもに語りかけてくるのです、じっと世界に分け入っていくことができれば。和歌や短歌を創るときと同じです。稲の苗やフラワープロジェクトで、ぜひ試してみてください。世界に没入すると、世界が秘密を打ち明けてくるようになるのです。

環境の再構成について

2021/05/14

入園、進級してからGWも終わり1か月以上が経ち、今は子どもたちの生活がある程度、落ち着いてきた時期になります。そこで見えてくる子どもの姿は、1人ずつ異なっているのですが、それでも「その子らしさ」が際立ってくるのがこの時期の特徴かもしれません。これまでもそうでしたし、これからも、きっとそのような時期であるでしょう。

これだけの時間がかかるのは、先生や友達同士の関係が大きく変化し、その変化の結果に再適応するまでには、どうしてもある程度の時間がかかるからです。この時、自分と他者の間にうまくバランスをとっていくためのスキルの発達の程度によって、個人差が生じます。特に2歳児クラスから3歳児クラスへの進級が最も変化が大きいのですが、4月当初が大きな変化であるように思いがちですが、そうではなくて、この1か月ぐらいの間に、周りの人的環境が大きく変化していくので、そのへの再適応がどうしても必要になってきている時期なのです。

そこで私たちは5月から環境の再構成に力を入れていきます。その様子は、各クラスのブログで紹介されています。少しそのポイントと方針を説明します。

新たな空間には必ず安全基地を充実させることが必要です。リラックスできて、ころごろしたりして、アタッチできるもので安心を得ることができるような空間です。ふわふわしたもの、柔ないものなどが必須になります。物も繰り返し同じ動きが生じるものや、見通しが立つようなものが有効です。また人の環境も大事で、子どもの同士の関係の中に安心できる関係を見出せない場合も生じるので、そこでは大人がそれまで以上に応答的に対応していくことを大切にしています。決して甘やかすということではありません。

この時の安心できる人や遊びや空間があることがとても大切な時期であり、決まりやルールを優先させて、それに従うことを強く言葉で促すようなことよりも、何をしたいという欲求が生まれているのか、その背景や理由や心理機構をよく理解してあげるような、じっくりとした関わりや受容が大切なのです。

こんなことを話し合いながら、一人一人の姿の意味を読み取っていきたいと考えています。

生活を作り出すための意見表明

2021/05/13

朝8時50分。3階では「どのゾーンを開けますか?」という話し合いが始まっています。聞いているのは先生ではなくて、子どもです。開けるゾーンを決める話し合いは、子どもたちが話し合って決めています。この話し合いに参加することは大きな意味があるような気がします。何かを決めることにコミットするからです。自分にも返ってくる意思決定への参画は、世界中で保育のキーワードになっています。生活への参画権です。与えられたものを従順に守れる資質ではなく、やりたいことを主張して勝ち取っていく民主的プロセスを、幼児の時から経験していくことは大事です。

この意思決定のプロセス参加は、物事を「我が事」として考える習慣に導き、自由と責任を学ぶことに通じるのです。誰かがどこかで決めたことを守れるということではなく、今この目の前で決まる場面に立ち合い、自分がどうしたいのか自己に向き合い、自分の考えをまとめます。そのためには、他人の話も聞かなければなりません。

9時半から10時までの間にある朝の会でも、その日何をするか話し合います。また夕方のお集まりでも、その後の遊び方を提案し合います。このように、1日の中に自分の考えを意見表明する機会が3〜4回あるのですが、その毎日の繰り返しはシチズンシップを身につけていくことになっています。

こんな姿が増えて嬉しい日々です

2021/05/12

皆さん、自分の子どものが「しっかりしてきたなあ」と感じる時は、どんな時ですか? 私がそれを感じるのは、自分で自分の行動をしっかりコントロールしているなあ、と感じる時です。

たとえば、私の担当になっている朝の運動遊びの中では、最近のお気に入りは「ブランコ」なのですが、その順番を待つこととか、遊びをおしまいにできるとか、時間になったから交代するとか、そんなことがかなりスムーズに切り替える力がついてきたなあ、と感じることが増えました。ごっこ遊び、見立て遊びのおしまいの仕方も上手になってきた気がします。

そんな場面に注目してしまうのは、大人の勝手な都合なのかもしれませんが、特に日本の文化の特徴が表れているかもしれません。子ども同士が自分の思いと他者の思いを上手にすり合わせたり、調整したりできることに価値を見出したがる自分がいます。それは自己主張して相手を「論理的に打ち負かす」ことが望まれるような文化ではなく、自分の気持ちや考えもあるけれども、相手のことも考えてどうしたら共に良くなるかを考えよう、という志向が強い気がします。その結果が、日本人は「同調圧力に弱い」という国民性につながっているようにも思えます。

しかし、これからの社会に望まれるのは、共生社会ですから、自分の意見や考えもちゃんと持っていながらも相手の気持ちや考えも理解していくようなスタンスでしょう。そんな大人になってもらうための「ブランコ」や「アゲハ蝶」との関わりだったらいいな、と思っています。

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