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園長の日記

こんな姿が増えて嬉しい日々です

2021/05/12

皆さん、自分の子どものが「しっかりしてきたなあ」と感じる時は、どんな時ですか? 私がそれを感じるのは、自分で自分の行動をしっかりコントロールしているなあ、と感じる時です。

たとえば、私の担当になっている朝の運動遊びの中では、最近のお気に入りは「ブランコ」なのですが、その順番を待つこととか、遊びをおしまいにできるとか、時間になったから交代するとか、そんなことがかなりスムーズに切り替える力がついてきたなあ、と感じることが増えました。ごっこ遊び、見立て遊びのおしまいの仕方も上手になってきた気がします。

そんな場面に注目してしまうのは、大人の勝手な都合なのかもしれませんが、特に日本の文化の特徴が表れているかもしれません。子ども同士が自分の思いと他者の思いを上手にすり合わせたり、調整したりできることに価値を見出したがる自分がいます。それは自己主張して相手を「論理的に打ち負かす」ことが望まれるような文化ではなく、自分の気持ちや考えもあるけれども、相手のことも考えてどうしたら共に良くなるかを考えよう、という志向が強い気がします。その結果が、日本人は「同調圧力に弱い」という国民性につながっているようにも思えます。

しかし、これからの社会に望まれるのは、共生社会ですから、自分の意見や考えもちゃんと持っていながらも相手の気持ちや考えも理解していくようなスタンスでしょう。そんな大人になってもらうための「ブランコ」や「アゲハ蝶」との関わりだったらいいな、と思っています。

アゲハ蝶だろうか?

2021/05/11

保育園の「みかんの木」にアゲハ蝶と思われる幼虫が数匹見つかりました。幼虫といっても、まるで鳥のフンのようにしか見えません。私と虫好きな年長のTHくんと一緒に探してみたら、いました。みかんの木は、駐輪場側の花壇に開園した年の3月に植えたのですが、毎年アゲハがきています。

自生している朝顔が巻きついていて、どこにみかんの木があるのかわからないような状態になっていますが、アゲハ蝶にとってもう自分の巣立った場所がわかるような不思議な記憶装置があるのかもしれない、と勝手に思っています。

夕方のお集まりの時に、小林先生がみんなに「アゲハ蝶かもしれないよ」と説明してくれました。そのみんなの真剣な眼差し。

「どうして鳥のフンのようなんだろう?」先生がそう問いかけると、年長のもう1人のTHくんが「鳥のフンだと思って食べられないから」と明快解説!なんとも頼もしい「はらぺこあおむし博士たち」でした。

親子ふれあいWEEK 第2弾 地域を知ろう!

2021/05/10

先週5月6日(木)に、コドモンでアンケートのお願いをしました。今日保護者の方から「気付いていない方が多いかも」と教えていただきました。スマホ画面のアイコンに、最新情報があることを示す赤い印マークが出ていなかったようです。原因を調べていますが、コドモンを開いてみてください。

コロナウイルスの感染拡大で親子遠足などができにくい中で、その代わりに「親子ふれあいイベント」を継続的にやっていく予定です。稲の苗配布に続く第二弾です。皆さんから地域情報を集めてお散歩マップなどにして、役立つ子育てスポット情報を皆さんと共有しようというわけです。ご協力をお願いします。締め切りは延ばします。

母の日

2021/05/09

母の日。

保育園では子どもたちと童謡「おかあさん」を歌っています。作曲:田中喜直 作詞:田中ナナ

おかあさんの匂いが卵焼きだと歌われて「そうだ」とずっと思っていました。あの味は母の味なんですよね。

 

今母である人、昔母だった人、母にはなれない人、母を知らない人、母を介護している母、いろんな母といろんな人にとっての母がいて、こんなに大きな存在である母がいて、例外なく母から生まれてきた私たちの母。全てを生み出したマザー、母なるものを想いながら。母の日の過ごし方は?・・

いろんな表象の豊かさを感じるなら、やっぱり音楽の力を借りてみよう。思い出す歌を並べてみると・・

海援隊「母に捧げるバラード」

山口百恵 「秋桜」

Kiroro「未来へ」

♪母がくれたたくさんの優しさ 愛を抱いて歩めと繰り返した

Greeeen「父母唄」

大橋卓弥「ありがとう」

♪ママのいうことを聞かずに家を飛び出した私・・

綾香「ありがとうの輪」

宇多田ヒカル「花束を君に」

 

 

音楽を一緒に楽しみたい

2021/05/07

昨日の話の続きです。音楽のメロディ(リズムやハーモニーも含めて)が表しているものがあって、それが人類共通の何かを表しているとしたら、歌詞の方はその国や地域の言葉で表されているので、その二つが一緒になっている「音楽」は、二つの表象が重なることでさらに豊かな表現になっているはずです。

NHKの「みんなのうた」は今年60周年を迎え、その特集番組をみていると、あれもこれも「みんなのうただったんだ!」と驚くばかり。日本の音楽環境は、素晴らしいものがあります。こんな児童文化財が豊かにあることを、もっと大事にしたほうがいい、そう思います。

大事にするというのは、その音楽が表している世界を子どもたちと一緒に楽しむ、ということです。一緒にという仲間に入るのは、子どもたちを支える皆さんと私たちが一緒に、ということです。そういう機会を作りたいですね。

音楽が模倣しているもの

2021/05/06

子どものやりたがることに、いつも、いつも模倣があるのですが、そのことはこの日記でも「散々」と言っていいくらい書き連ねてきた気がするのですが、それでも、次のような考えがあることを知ってびっくりしました。

「音楽がわれわれの存在に奥深い内部にきわめて強く働きかけるのは、音楽だけが他のあらゆる芸術とは異なって、世界の存在物のなんらかのイデアの模写ではなしに、意志それ自身の模写であるからに他ならない」

「他の芸術は影について語っているだけだが、音楽は本質について語っている」

とても納得のいく説明です。お絵かきやブロックやままごとや、パズルでもいいのですが、それらに見られる模倣(模写でもいいのですが)は、確かに何かの模写であるのに対して(だからこそ「ゾーン」という空間的な場も必要になるのかもしれませんが)音楽は、メロディそのものが直接、私たちを生かせている世界の意志を奏でているんだと思うと、他の遊びの体験との違いに納得できるのです。

わかりづらいかもしれないのは「意志」の模写という意味でしょう。「世界は私の表象である」と考えるショーペンハウエルは、その表象を生んでいるものが世界の意志だと考えているからです。(これでわかりやすくなるとも思えませんが・・「意志と表象としての世界」を読んでもらうしかないかもしれません・・)

ただ、ここでいう「音楽」とは、いまの音楽とはちょっと違っていると思います。彼が語っている音楽は、今でいうクラシックのことですから、歌詞はないと思ってください。作詞作曲というときの曲の方だけです。それが世界の意志の模倣だというのです。言葉が表象しているものは、また別にあるのだろうと思います。

<世界の意志>というのは、人によっては神だったり、宇宙原理だったりブラフマンだったりしますが、いずれにしても不思議なことに世界を動かしている根源的な何かです。それを音楽は直接に表象してくれているんだというのですから、実に面白いと思いませんか?

私たちがなぜ、こんなに音楽を愛おしく感じるのか。私たちの命を生かしているものと、いわば出会っているようなものなのかもしれません。歌を歌いたい! 楽器を弾きたい! という衝動の源もまた、<私は今を生きたい!>という欲求の表れなのかもしれません。

明日から保育再開です

2021/05/05

二十四節気では「立夏」の今日5日の「こどもの日」はGWの最後の日でしたが、この連休、いかがお過ごしでしたでしょうか。緊急事態宣言の最中なので身近なところで過ごされた方が多かったと思いますが、今日のニュースを見ていると緊急事態宣言の延長は5月末までになりそうですね。「ロックダウン中でも蔓延したのがロンドンでした」。イギリスで治療にあたった医師がテレビで警鐘を鳴らしています。明日から保育再開です。インドからの変異株は今度こそ防いでもらいたいものです。水際対策には私たち市民は協力のしようがありません。国しかできないことは、国にしっかりやってもらうしかないのですから。

日本保育学会で実習について議論へ

2021/05/04

51516日に富山市で日本保育学会が開かれるのですが、今年はリモートによる開催になり、自主シンポジウムや口頭発表などを事前発表資料として見ることができます。この2年ほど私は参加していないのですが、それまでは毎年、保育実習のあり方についての話題提供で参加していました。保育園は保育士を養成する役割を担っており、実習はその養成課程の核とされています。学会が問題だと考えていることの一つに、実習で学生に「クラスをまとめる力」を求めてしまう保育現場の古い体質です。国も養成校も子ども主体の保育を推進したいのですが、なぜか実態は学生に保育者主体の一斉指導力を期待してしまうという矛盾です。責任実習というと一斉指導ができるかどうかになってしまう問題です。そうなってしまう背景には、3歳児20対1、45歳児30対1という保育士配置数の問題や、環境を通した保育の無理解などが続いていることもあるからです。学生に保育士資格を与えるのは養成校ですから、保育の実施主体である自治体と保育園側へもっと強く「子ども主体の保育」を実施するように要請するべきなのです。

自然を身近なものに

2021/05/03

今日は屋上のプランターにひまわりの種を神宮司さんが蒔きました。昨年の夏は和泉橋からよく見えました。園の周りには、できるだけ分かりやすい季節の花を親しめるようにしたいのです。春はタンポポ、桜、チューリップ、菜の花、梅雨は紫陽花、夏はひまわりや朝顔、秋は菊やコスモス、冬はツバキやサザンカ、ナンテンなど。童謡に歌われているような花や木を実際に触ったり匂ったりしたいものです。

八王子の姉妹園から園だより5月号が届き、啄木鳥が木をドラミングする音が聞こえているといいます。ちょうど鳥のさえずりが夏を迎えているのが想像できます。園庭の藤棚もちょうど見どころでしょう。その場所は近くの池にカワセミがいるほどの自然が残っている場所なので、この千代田とは比べることはできません。

ところが、目を凝らすと千代田区にも季節を感じる自然が色々見つかります。ひまわりの種を蒔いた土の中から、カナブンの幼虫が出てきました。この土は買った黒土だったので、有機物があまり含まれていなかったのですが、だんだん土の中に微生物が繁殖し、小さな生態系が生まれようとしています。土の中から鳥が捕まえた獲物と思われる肉が出てきたそうです。「たぶん、カラスじゃないかな」と神宮司さん。三階建ての屋上にも、土があればそこを住処にする生き物がやってきます。昨年はバッタがたくさんいましたから、今年はそれがどう変わってくるか、新しい食物連鎖が生まれるはずです。

子どもの表現についてアーティストらと懇談

2021/05/02

先週425日の日曜日に海老原商店で青木さんが主催した座談会がありました。ダンサー、作曲家、演出家、写真家などのアーティストが集まりました。アーティストというのは別の言葉で言うと表現者ですが、何をどうやって表現するかはそれぞれです。何を語り合ってもいいのですが、私は自分の考えを言葉で表現することもアートだと考えていることと、子どもが言葉を話し出すことや体を動かしたがることの「ベクトル」の話をしました。自らが世界に向かって語りだす方向と力についてです。そのベクトルと成長と一致させるための表現を保育にしたいと思っているという話です。子どもが環境に関わって現れる軌跡がアート表現になりうる条件とは?そんな話です。青木さんはダンス指導の方法を語りました。その話を聞いていて、どうやったらもっとよくなるかは、そこに何らかのよさを見出していくような専門家から見た「見る目」というものがあることがはっきりとわかります。私はその判断はもちろんできませんが、子どもの心の動きに伴う対応についての「より良いもの」についてならわかります。リトミックを創ったダルクローズに詳しい方とリズムについて話し合うこともできました。表現の本質を探究する方々との語らいは楽しいものです。ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」を読み直すことにしました。

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