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園長の日記

今年の一文字は「快」を抱負に

2021/01/05

4歳になったばかりの男の子から、たくさんのことを教えてもらいました。その子の持っているその知識は私のものを超えていて、「興味のあることはこんなに世界をキラキラと輝かせるものなんだなあ」と羨ましいほどです。人には興味の先に気づきや発見が待っていて、そこから世界が広がっていくのです。その広がり方は、知識だけではなく、実際に行ってみたい、見てみたいという行動も促します。これは強い。実体験を伴いながら広がっていく世界。みんながこのように生きていけたら、素晴らしいだろうと思いました。

私は今年の抱負を漢字で「快」という一文字にしました。子どもも保護者の方も、そして先生たちも一人ひとりが心地よく過ごせるようにという意味です。快い気持ちでいることを平凡と受け止めるか、それとも、それを抱負とせざるをなない逆説と捉えるか、あるいはもっと哲学的にエピクロスが唱えたようなアタラクシアの境地を目指す意味なのか、受け止め方はさまざまかもしれません。でも私は、自分で名付けた「幸福の3条件」の前提だと思っているのです。

今日5日の新年会で、この意味を説明しました。新年会と言っても午後の休憩時間に職員が5〜6名ぐらい20分ぐらい集まって開いた慎ましやかな茶話会でしかありません。それぞれが今年の抱負を漢字一文字で表して述べ合う時間です。私は常々、人が幸せに生きるには、3つのことが必要だと考えています。それを幸福の3条件としているのですが、それは次の3つです。

まず自分のやりたことができることが第1の条件だと考えています。それは仕事であろうと趣味であろうと関係ありません。好きでもないことをやり続けてもそれは満足できないからです。その欲求の強さについては、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスから学びました。人は死に直面して自分の人生を振り返るとき、多くの人が「本当は、こんなことをしたかった」と後悔するそうです。

幸せの第2の条件は、好きで選んだ仕事や活動が、他者にとっても意味のある何かになっていることです。利他性があること、あるいは自分のやっていることに社会的な意味を感じること、もっと平たくいうと社会の中で「やりがい」や「手応え」を感じることです。起業家は「志」がなければ、その実現に向けた努力を支えることもできません。金銭的成功や社会的な名誉欲などを得ても、虚しさを拭い去ることができないものだからです。人は社会的な動物なのです。やりたいことが人のためであるような仕事につけたら幸せです。エッセンシャルワークもそのような仕事としては、わかりやすいものです。

そして幸せの第三の条件が、身近な人々との心地よく過ごせることです。家族や友人、会社や地域の人々と心を通わせ、愉快な時間が共有できることです。この3番目のことはとても大切です。一番目の自分の夢、2番目の社会的貢献、それぞれを夢中で追いかけることはいいのですが、そのプロセスで3番目を軽んじる人と会うと、その独善性に嫌気が指します。社会的に本当に一流の人とは、第3の条件から見てもおおらかでユーモアに満ち、一緒にいることが快いものだからです。

実は、子どもは生まれながらにして、この3番目の達人かもしれないと思う時があります。面白いことが好きで、楽しいことに目がなく、喧嘩をしても根に持ちません。喜怒哀楽がはっきりとわかりやすく、心根がまっすぐです。このまま、真っ直ぐに社会性を身につけてくれたら、どんなにいいだろと思います。大人になるというのは、この子どもの心を失わずに社会性を身につけることが理想だなと思います。子どもたちと心を通わせていると、己の心情をもっと磨きたくなります。子どもは大人を謙虚にさせてくれます。

保育初め〜書初め

2021/01/04

年長さんに比較的欠席が多かったものの、ほとんどの子どもたちが戻ってきました。正月で楽しかったことを子どもに聞くと、自粛していた家庭が多かったことがよくわかりました。帰省や旅行の話はなくて家で過ごしたり、近所の公園で遊んだりした話が多かったような気がします。朝の会議を終えた頃、年長さんの二人が「園長先生、クライミング開けて!」と職員室へやってきました。いつもの光景です。この時、私にとって新しい年になっても、これまでと変わらない「保育園の生活に帰ってきた!」という実感が湧いた瞬間でした。

保育初めらしく、新しい年の初めにふさわしい歌がいいなと思い、幼児の朝のお集まりでは、お楽しみ会で歌った「世界がひとつになるために」を子どもたちと一緒に歌いました。今日は外遊びはせず、屋上で体を動かしたりしたのですが、午睡の時間に、布川先生による「書初め」を年長さん4人と楽しみました。書いた文字は干支にちなんで「うし」というひらがなの二文字。お手本を見て練習したり、お手本を見ないで書いたりしました。近く展示します。

 

今日は最初に、布川先生による「あけましておめでとう」を大きく書いてもらうと、その流れるような勢いのあるバランスのいい文字に、子どもたちも息を呑んで見入っていました。

その素晴らしさが伝わったことでしょう。玄関に飾りましたのでご覧ください。新しい気持ちで始まった保育初日。何事も新鮮な気持ちで取り組むと生き生きしてくるから不思議ですね。

改めて感染対策にご協力ください

2021/01/03

東京都の新型コロナ感染者が止まる兆しが見えません。今日3日(日)の感染者数は日曜日としては過去最高の816人で、そのうち感染経路不明者が557人で70%にもなります。

https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp

報道によると、そのうち家庭内感染が多数を占めるそうですから、40以上の家庭が集まる当保育園は感染リスクの高い場所になります。そこで、園内クラスター発生を防止するために、これまでの感染防止策の徹底を図ることにしますので、ご家庭でも次の点をご協力ください。

(1)子どもの朝の体温や体調などを記入は連絡帳などで必ず行ってください。幼児は健康カードの提出を忘れないようにお願いします。1月分をお持ちになっていない方は、3階のわらす入り口に置いておきますのでお持ちください。また子どもが何かの薬を飲んだりしている時も、これまで通りお伝えください。

(2)ご家庭で体調のすぐれない方がいたら教えてください。送迎はできるだけ健康な保護者が行ってください。ご家庭で体調不良な方がいる時は、可能な方は在宅勤務などに切り替えるなどによって家庭保育や短時間の保育にご協力ください。

(3)新型コロナは症状がなくても感染することがわかっていますので、できるだけ普段一緒に生活している方以外との接触を避けたり、三密回避や換気などを心がけたりするようにしてください。

以上の内容は「園のニュース」でも配信します。

労わり合いの気持ちで

2021/01/02

今日2日(土)の夕刻、一都三県の知事が政府に緊急事態宣言の発出を要請することになりました。それだけ身近な方が病気になられたり、苦しい思いをされていることを思うと胸がいみます。こんな時こそ、労りあって生活しましょう。こんな時こそ、私たちが培ってきた友愛の精神を呼び戻しましょう。支え合って生活することが本来の暮らしであることを思い出しましょう。保護者の皆さんの中で体調の悪い方がいらっしゃたら、ご本人への気遣いを優先させましょう。他の方に感染させてしまっていないか、うまく三密を避けたりできていなかったかもしれないといったことを考えざるを得ませんが、あくまでもご本人やご家族の安寧の確保が第一です。そもそも、そのために予防を心がけてきたのですから。ここに人の心理的転倒が起きやすい罠がありますね。

そうは言っても、確かに真っ先に<保育=預け先があるか?>になるのが現代の子育てかもしれません。そこが気になるのもわかります。報道によると、もし政府が緊急事態宣言を発出したときに、保育の制限まで踏み込むことになるのかわかりません。千代田区の場合は学校がどうなるか、幼稚園がどうなるかに準ずることになるのだろうと予想しています。4日以降にならないとまだわかりませんので目が離せなくなりました。

 

元旦に考えるこれからの保育の価値

2021/01/01

2021年元旦。21世紀も5分の1が終わり、新しい10年が始まりました。昨日の大晦日に全国で4515人、東京で1337人の新規感染者を記録した新型コロナウイルス第三波の真っ只中で迎えることになった新年初日は、家で静かにスタートです。年末に済ませた幸先詣というのも、初めての体験です。大晦日と元旦の時間の違いから感じた違和感がありました。それは無事に一年が終えられることへの感謝の参拝と、年が明けておめでたいという気分で行う参拝との違いです。でも神と対話する窓口とチャンスはどちらでも同じでした、少なくとも私には。多分自然のあらゆるところに神を感じる汎神論の日本人にとって、多くの人がどちらも受け入れるのではないでしょうか。

これを機に、働き方も休暇の取り方も分散化したらどうでしょう。大打撃の旅行業界のためにも、GWだとかCWだとか繁忙期と閑散期が周期的にやってくる旅行のシーズン化はやめにして、移動の平準化を、経団連かどこかが旗を振ったらどうなんでしょうか。マイクロツーリズムのアイデアもうまく機能しなかったのももったいないことでした。都道府県のガバナンス力を今よりも遥かに向上させないとうまくいかないこともわかりました。

新型コロナの問題は、回答のない試験問題だと考えると、同じ問いを世界中に問いかけていることになります。これは学校が育成する「学力」が最も苦手な問題です。この試験問題は、制限時間がありません。ただし時間がかかると生存が脅かされます。カンニングも話し合いも投資も全てOKなのですが、こうした課題を解決できるかどうか。それは私たちのこれまでの「生きる力」や「教育の成果」や「知性全般」が試されています。学問や科学や哲学や政治の本当の力が問われています。

昨年は「不要不急の用」とは何かをよく考えました。ほとんどのことが不要不急かもしれないと思えました。同じように感じている人が増えたのでしょう、市場や資本主義を問い直す議論も増えました。これはいいことです。人類の持続可能性と気候問題の視点から、資本主義と経済成長を問い直す生き方の模索も若い人たちの間で始まっています。そういう意味では、エッセンシャルワークである保育は、市場サービスという交換価値にしてしまってはいけないのです。保育は必要だからあるという使用価値そのものだということを明確にし、その理解を行政担当者を含めて関係者が共有することが大切なのでしょう。

保育とは、子どもたちに正統な文化的実践を見せていくこと、その体験ができるようにしてあげること、そういう実践に興味や関心を持てるような環境や生活を用意することです。それらとの出会いの架け橋役が保育者です。ですから私たち保育者は、何が望ましい生活なのかという価値判断の専門家である必要もあります。そのために未来にふさわしいものを探し出し、実践したいと思います。

今年を振り返るとしたら

2020/12/31

毎年、年末になると一年を振り返りながら、なぜか何かに「感謝」したい気持ちになります。また仕事から離れて、家族と一緒にいる時間がたっぷりとあるのはいいものでしょう。でも子育てをしている頃は、ある意味で何をするにも自分のことは後回しになることが多いので、親の勤めを果たすことで「いっぱい、いっぱい」だっとような気もします。常にやることがあって待ってくれない時間の連続ですからね。じっくり何かを考えるなんてこともなかなか出来ません。

一昨日、27歳になった子どもに「どうしてあの園を選んだのか?」と聞かれて「その頃は、まだお父さんの園がなかったからだよ」と答えました。でも、いろいろ考えました。私も若い頃の考えと今とはかなり違います。その園がとても研修に力を入れていたことを思い出しました。でも本人は園生活のことをほとんど覚えていないらしく、親から話して聞かされたことが園生活の記憶になっていると言います。そういうものかもしれないと思います。

しかし、本人が覚えていなくても、確実に大切な体験というものがあって、それが後々にまで影響を与えることは間違いありません。他人や社会への信頼感、自分への肯定感、自信、他者との心の交流で育つ様々な心情。センス・オブ・ワンダーを伴うような物事への興味や関心の広がりなど、乳幼児からの体験の質の違いは、育ちに影響します。

同じ観葉植物でも植木鉢を大きくすると、大きく育ちます。それに似ているかもしれません。その根っこの部分は本人が知らなくてもよくて、それに見合った幹や葉っぱや花や実になるのかもしれません。その根っこの部分というのは、人間の場合、脳や体幹など心身の基盤と言われているものになるのでしょう。そんな根っこの部分を本人が覚えていないのは当たり前でしょう。脳が自分の育ちを意識化できようになる前の育ちなのですから。

人には思い出したくても思い出せない無意識の領域というものがあって、きっと一年をどんなに具に振り返っても、思い出したくないものは意識できないようになっているのかもしれません。その方が健康にいいということもあります。また思い出せないからといって、たっぷり時間をかければ思い出せるかというと、そういうものでもありません。それは何年経っても思い出せないものは思い出せないものなのでしょう。

さらに絶対に思い出せないことがあります。それは元々、気づかれていない物事です。もともと再生される対象にすらなっていません。思い出したい「思い出」になっていないことは、無かったことと同じです。体験がないことは無と同じです。人は体験すること、つまり育つ部分を使うことで発達します。その体験がないなら育ちようがないのです。思い出すかどうかということの以前の問題なのです。

ところで今年を振り返って思い出すべきことはなんでしょう。それは未来に影響すること、これからの生活に影響することです。教訓として明記しておきたいものですが、その1つは新型コロナウイルスや気候変動が教えてくれたことです。自然と人間の関係に関するものです。私たち人間も自然であり、種として必ずDNAを残しながら個体は死にます。人間はその自然から飛び出した部分を持ってしまいました。それが理性であり自意識です。思い出もその1つです。

その理性というかロゴス(悟性)の部分が、地球上で持続可能な生存を脅かすほどに自然とのバランスを壊し尽くそうとしています。その現象の1つが埋もれた病原体を際限なく再生させたり、地球温暖化などで自然を破壊しているのです。こんな時代を地質学上の学名で「人新世」と言います。自然と理性とのバランスの回復を描いた物語は、例えば宮崎駿の「風の谷のナウシカ」です。ナウシカがやったことを、大人は真似しないといけない時代なのです。

そんな時代に突き進んでいく原動力となっているのが、経済成長を疑わない資本主義経済の暴走です。とにかく売れるものを作り出して経済を回すことを最優先させざるを得ない経済の仕組みです。これを変えるのは、とても困難なように思えますが、脱成長経済への大転換を早期に果たさないと「引き返せない地点」はもうすぐです。その地点とは、10年後、2030年ごろですから保育園を卒園する子たちが高校生になる頃です。

このことを身近な人の死を通して告発したのが今年という年でした。また脱成長経済を目指すべきだということを明確に説明してくれているのが斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(集英社新書)でした。園だより1月号でも書きましたが今年の教訓は、どうしてもこのことの「気づき」から、物事を組み立て直していくしかないように思えます。

鬼滅の刃が大ブームになった年ですが、鬼は人間が作り出す格差社会だったりします。あのアニメから、今の時代に相応しい社会のテーマを導き出すのは難しい気がします。間違っても地政学的な敵を作ってそれを鬼扱いだけはしないようにと無用な心配をしてしまいました。

 

『十二支のおやこえほん』で笑う

2020/12/30

子どもに絵本を読んであげていると、その反応が面白くて「物語」というものが持っている力を実感します。11月から始めた「園長先生の絵本タイム」で取り上げた絵本は『おしいれのぼうけん』『いやいやえん』『エルマーのぼうけん』『エルマーとりゅう』『エルマーと16ぴきのりゅう』『もりのへなそうる』と続き、今年最後は『番ねずみのヤカちゃん』で終えました。

ただ28日(月)は保育納めの日だったので、この時は高畑純の『十二支のおやこえほん』を楽しみました。

 

親子の会話が漫才のように面白くて、大笑いしながら「おち」のおかしみを味わいました。来年の干支は「うし」ですが、牛の子どもが絵を描いたというので、お父さんは自分を描いてくれたと思って、白地に黒の大きな斑点のあるその絵をみて喜ぶのですが、子どもが描いたのは実は「パンダ」で、「パンダを描いたとは言えません」とった会話になっているのです。

一回読み終えると「もう一回読んで!」と大好評だったのですが、このようなユーモアやおかしみのある絵本はとてもいいと思います。子どもは本来、そういうものを好みます。決して低俗なものだと否定してほしくありません。絵本のお話も遊びと同じ快楽が色濃くあるものなのです。そこを肯定することが、生活の中の豊かさに通じます。こうして楽しい笑いで最後の保育になりました。機会があれば、ご家庭でも親子で楽しんでもらいたい絵本です。

 

ドイツの教訓に学ぼう(新型コロナ対策)

2020/12/29

新型コロナ対策を意識しながらの年末年始。今の日本全体の気分を言い表している言葉を見つけました。雑誌「選択」1月号が今日届きました。その巻頭インタビューで、ドイツ国立アカデミー会員の微生物学・免疫学者であるヘルガ・リュプザメン=シェフが、1日の感染者が3万人を超えてしまったドイツの現状を次のように述べています。

「今回の場合、国民は警告を深刻に受け止めたくなかったのだと思う。それでも国民の70〜75%は、各種規制を守っている。だが、20%ほどは明らかに守っていない。感染が拡大するには、これで十分だ」

そうか。20%が守らない、あるいは守れないだけで、あっという間に一日3万人になってしまうのか。彼女はさらにこう言います。「ドイツの強みは、日本と同様に、感染経路の徹底調査にあった。だが、これが機能するのは数百の水準で、数千や万単位になったら完全にお手上げだ」

日本はもうすぐ、その一日数千になってしまうかもしれません。「お手上げ」というのは、今のドイツのようになるということ、つまり厳格なロックダウンの導入が余儀なくされてしまうということです。首都圏は、その判断が年明けに来てしまうかもしれない、そういう剣ヶ峰の正月を迎えることになってきました。そうならないことを祈るばかりです。

さらに忘れてはならないのは、感染数がどんな規模になっても、大規模検査が重要なのは変わりません。その政策へ踏み込まない日本の新型コロナ対策本部は、民間の検査センターを支援する素振りすら見せず、返って偽陽性を問題視して改めて感染研ラインのCPR検査を受けるように指導する始末です。世界標準の対策から程遠いままでは、本当に心許ない事態です。

年末休みの初日である29日(火)の夕方、朧月夜の師走の中で、このテーマを考えざるをないのでした。みなさん、ぜひ感染対策を徹底して健やかな正月を迎えましょう。

 

保育納め

2020/12/29

2020年、今年最後の保育が終わりました。年末らしく鏡餅を備えたり、正月飾りを作ったり、干支にまつわる絵本を読んだりする時間もありました。

湯島天神の幸先詣で授かった干支の人形も飾りました。

わいらんすいの幼児たちの中には、夕方の終わりの会の歌を歌い出すと、しばらく会えなくなることに寂しさを感じて泣き出す子もいて、担任に抱き寄せられていました。

◆鏡餅づくり

午前中3〜5歳が2階のダイニングに集まって、お餅ができるまでを机の上で体験しました。粳米(うるちまい)と餅米(もちごめ)を見比べてから、それぞれを蒸したものを、ジッパー袋の中に入れ、それを手で叩いたり潰したりして餅にしてみました。潰していくうちに「お餅になってきたあ」という声も。

その上で、栄養士の古川先生が、実際に蒸し上がった餅を目の前で捏ね上げていくデモンストレーションを披露しました。

餅は粘り気が増していき、しっとりした形のいい鏡餅になっていくと、子どもたちからは割れんばかり歓声が上がりました。新型コロナでお餅つきができない代わりにやった「鏡餅が出来上がるまで」の体験でした。

◆正月飾り

千葉の藤崎農園の田圃で刈った稲と、屋上で育てた稲を使って、正月飾りを作りました。

松の代わりに色紙を細く丸め、千両の代わりに松ぼっくりを赤く塗ったもの、そして水引の代わりは手提げ袋の紐を、牛の絵はすいすいのKくんが描いてくれました。神様も「ここは子どもたちのいるところだな」とわかってくれることでしょう。

zer〇の公演「偏向する傾斜」を観て

2020/12/27

(上の写真は「zre〇」のパンフレットより)

人の生活から文化活動を除いてしまったら、それは味気ないものになってしまいます。子どもから遊びを除いたら人間ではなくなってしまうように、大人も文化活動をなくすことは、ある意味で人間性が疎外されてしまうものなのかもしれません。12月27日(日)はダンサーの青木尚哉さんのグループ「ZER〇」が主催する公演を観てきました。青木さんと出会ってからというもの、私のダンスや踊りというものへの見方が大きく変わりました。青木さんたちのダンスを観ることで「身体」と「表現」の関係を考えることが増えました。

 

公演のタイトルは「偏向する傾斜」。偏向とは考え方がかたよっていること。またそのような傾向のこと(公演パンフレットより)。新型コロナウイルス対策を徹底した中での舞台公演は、それを実施することも参加することも、状況と見方によっては「偏っている考え」と批判されるかもしれません。公演はそうした社会のありよう事態を舞台の上に再現したかのような内容でした。全てがナナメで出来上がり、ナナメから捉えられ、あたかも世界はナナメであるからこそ生じていると思えるような傾斜ぶり。

青木さんの舞台は、舞踏に限らず音楽、映像、物も活かされます。パソコンの画面が舞台背景に写し出されると、右肩にデジタル時計が時刻を刻み、観客席の一角に備えられた「ピタゴラスイッチ」風の仕掛けから、傾斜した溝をビー玉が転がり音を出し、それが電子音リズムを奏ではじめ、舞台上には斜めに立ちすくむ5人のダンサーが段々とその姿勢を背後に反らしながら、ゆっくりと傾いていきます。そして物語は、そもそも私たちの地球の地軸がやや傾いていることから始まりました。

人との関係が身体を通じて応答しあっていること、斜めに絡み合っている人間たちの愛や孤独や葛藤や衝突や和解も表現されていて、複数の身体の動きから、こんなにもたくさんのイメージを創造することができることに感服しました。例えば、身体と身体の一致とずれが可視化されています。

バレエにしてもアイスダンスにしても、動きが美しいと感じるのは、他者の手や全身の動きに調和した相似形やシンメトリーなものが多いですよね。ところがその点、ZEROのダンスはその一致加減やズレ加減をあえて際立たせます。親子運動遊びでも体験した「マネキンとデザイナー」のように、形を同じように合わせよとしたり、あえて異なるようにしたりする動きが、まるで社会の中で考えに同意したり異なる意見を表明したりする人間関係を表しているかのようでした。

ZEROは「身体の重要性を唱え、学びと創造を続けるダンスグループ」です。その活動目的はユニークです。「誰がも持っている身体をテーマの中心に置くことで、舞踏に限らず音楽、映像、建築、医療、教育など分野を超えて人々の共通言語やつながりが生まれ、それぞれが個人の能力を発揮できる場となること」を目指しています。このことをきちんと理解した上で、舞台を見つめると、その表現にこめられた思考や意図の痕跡が伝わってきて感動したのでした。

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