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園長の日記

らんらん組も初めて旧今川中で遊ぶ

2020/12/08

◆らんらん組も旧今川中へ

昨日に続き、今日8日も午前中は旧今川中の校庭で遊びました。年長のすいすい組と一緒に初参加のらんらん組(年中)も、すんなりと外遊びに加わり、充実した1時間30分を過ごしました。行き帰りの時間を含めると9時半から12時近くまで2時間以上の外遊びができることは、心も体も健康になるような気がしてきます。わいわい組(年少)は歩く距離と子どもの総数、交通安全上の視点から次回以降になります。

らんらん組が加わったことで、すいすいだけの時よりもメンバーが充実して、遊びに広がりができました。サッカーや転がしドッチのほかに、電車ごっこや旅行ごっこなどでも盛り上がっていました。旅行ごっことは、電車ごっこの発展形です。駅に到着するたびに、乗客たちのリクエストで電車は色々なところへ旅立ちます。ハワイ旅行やホテル住まいなどに展開しました。

◆すいすいは「エルマーと16ぴきのりゅう」へ

火曜と木曜の午後、園長による「すいすいの読書タイム」は、エルマー三部作の第3巻「エルマーと16ぴきのりゅう」に入りました。いつものように、本についている地図を拡大コピーして子どもたちの前に広げて、ゆっくりと読みます。読みながら、何度も質問が出たり、感想をのべたり、「きっとこうなるんじゃない」と話をしたりしながら、読み進みます。すでに最後までお話の内容を知っている子もいるので、みんなと約束したルールは「どうなるか知っていても、いっちゃダメ」という「ネタバレ禁止」のお約束です。でも思わず、「知ってる!」と言ってしまうKくんがハッとしている様子も可愛らしいのでした。

 

◆キャベツが収穫の時期へ

屋上で育てていたキャベツと白菜が収穫の時期を迎えました。1階に下ろしていありますのでご覧ください。近いうちに食育として食べますが、子どもたちには、もう1つ「科学」としての目線で「野菜の育ち」を見つめてほしいと願っています。そのためにキャベツの断面が見えるような料理を考えています。

 

年長さんの体力測定

2020/12/07

◆運動能力の測定

4月から小学生になる年長さんは、どれくらい運動能力があるんだろう。今日はその測定を旧今川中でやりました。測定項目は25メール走(俊敏性・瞬発力)、立ち幅跳び(瞬発力)、ソフトボール投げ(瞬発力・調整力)、体支持持続時間(筋力・持久力)、両足連続跳び越し(調整力・敏捷性)の5つ。測定といっても、子どもたちは、思いっきり走ったり、力一杯跳んだり投げたりと、楽しそうでした。測定が終わっても、走ったり跳んだりを繰り返してました。

どの測定項目も、小学生以上の、中学生でも高校生でも通用するような項目になっていて、幼児の体力をみる基準としては、相応しいとは言いがたいでしょう。普段あまりやってないので「慣れ」ていないという意味でも、数値は低くなったでしょうが、それでも立派な数値だったと思います。年長さんとしては遜色ないものでした。測定が終わったあとは、自由にあそびました。また、神田淡路町保育園「大きなおうち」の年長さんたちも測定に来ており、同じ小学校になる子同士の紹介も少しだけできて、束の間の交流になりました。

旧今川中での遊びは、毎月第二火曜日なので、明日はすいすいさんに加えて、らんらんさんも一緒に行ってきます。

◆運動会のパネルを展示

運動といえば、10月24日に行った「親子運動遊びの会」のパネルを展示しました。昨年のものの隣、2階への階段の壁面です。親子遊びの思い出になったら嬉しいです。

◆「きびだんご」を食べてみた!

劇遊びをはじめ、遊びの熱中度、集中度を高めるための秘訣の1つに「実際の体験を大切にする」というものがあります。実体験が充実すると、大抵はそれをもう一度再現してみたいという衝動から「見立て遊び」「ごっこ遊び」「うそっこ遊び」などの再現遊びになることが多いからです。

そこで、劇遊びの「ももたろう 」に出てくる「きびだんご」を食べてみることにしました。ほとんどの子どもたちが食べたことがないからです。実際に食べてみると、劇中での遊びのリアリティが違ってくることでしょう。

今日の3時のおやつの時間に「きびだんご」を追加してもらったのですが、素材の味重視のきびだんごは、甘味がなく、あっさりしていて、最初「あんまり美味しくない!」という表情だったのですが、「どんな味だろう?」と何度も噛んでいて、しかも味に集中していることもあり、噛むほどに「あ、甘くなった!」「ほんとだ、美味しい!」という味覚の発見もあり、嬉しそうでした。

大迫健司さんの作品「を,,とる ver.0」をみる

2020/12/07

ダンスとも一人芝居ともいえるパフォーマンスアートを今日6日に観ました。今年10月の「親子運動遊びの会」で音響を担当してくださったダンサーの大迫健司さんによる作品「を,,とる ver.0」という身体表現アートです。海老原商店で開かれました。主催は青木尚哉さんのダンスグループ「zer0」です。見ること、聞くこと、嗅ぐことができるものでした。大迫さんが抱いている「海老原商店という歴史的建造物との出会い」に伴う愛着感を、舞踏と独白と音楽を使って表現していました。この表現作品を、言葉でお伝えすることは至難の技です。

何か物事に対して、それは何ですか?と問うことはできます。そして「それは何々です」と説明されている物事もあれば、どこにも説明などされていない物事もあります。説明されていない物事に出会うとき、それを面白がれる人と、不安になる人がいるような気がします。子どもにとって、大抵のことはもともと初めて接するものばかりなので、好奇心を発揮することもあれば、警戒することもあります。それを区別するのは周りにいる大人(親)の表情や仕草や雰囲気を察して判断しています。それを社会的参照と言うのですが、新しいものに接していいのか、逃げるべきなのか、安全なものなのか危険なのか、生存のために必要な判断の基準も学びながら成長していきます。

自分が体験したことは、記憶され、イメージや意味の体系のカテゴリーに分類されて関連づけられます。その時、自分の持っているカテゴリーにうまく一致しない物事と出合うと、「これはなんだろう?」と考えます。そのとき、自分の中に収まる場所がない時、不可解なものとして退けられます。一方で「これは面白そうだ」と感じる人は、分類されたカテゴリーに当てはめることを諦め、その物事自体に関心を寄せ、新しい表象や意味を作り出そうとします。反感作用が強くなるのか、共感作用が強くなるのか、その出会いの一過性によって異なってしまいます。

作品が常に更新されていくような作品。アートの現代性がこうした形で探求されていることに、大変興味深い思いがしました。

 

音楽が身近にあることの幸せ

2020/12/05

お楽しみ会は劇だけではなく、「歌」も歌うのですが、人類が音楽に目覚めたのは言葉よりも早いという説があるくらい、人と音楽は切ってもきれない関係にあります。どんな関係かというと、喜びや驚き、恐れなどの感情の表出にはリズムや高低が異なる「音」が湧き出てくるという関係です。音は私たちの身体が放つものなのです。身体は楽器であり、色々な音を発しています。手を叩いたり、膝を叩いたり、足を踏み鳴らして音を出すときに、リズムも生じます。ちっち組のU先生はキーボードで、太鼓の音を出して、パーカッションのようにリズミカルな音を奏でると、子どもたちは嬉しそうに笑っていました。心地のいいリズム音は、子どもたちに喜びを伝えるのだなあと感心しました。

もちろん声帯も立派な楽器です。言葉を話す時には、必ずイントネーションがついていて、会話には波があります。子どもは、言葉と言葉の間に「ね」をつけてつないでいくことをよくします。「○○ちゃんね、昨日ね、映画をみたんだよ」のように、「ね」の音階が少し高くなります。リズムがあります。「み・い・ちゃん。あ・そ・ぼ〜」とゆっくりと声をかける時、日本人は、「ミ・ソ・ミ・ミ・ソ・ミ」のような2音階の節をつけています。これはもう「わらべうた」です。少し長い文章に節がついて、その意味にふさわしいメロディがつけば歌の出来上がりです。

わらべ歌を歌いながら手遊びをするときも、手を叩いたり、膝を叩いたり、友達と手を合わせたり、そうした遊びも音楽的ですね。1日の中で歌を歌う機会はお集まりの時にあります。楽器で伴奏音を奏でることで「集まりが始まる」合図にもなっています。

例えば昨日は中川李枝子さん作詞の「手をつなごう」をギターで伴奏すると、何人かが一緒に歌い出してくれました。「あの歌やってえ」とリクエストされるものを一緒に歌っています。楽器を奏でて伴奏し歌を歌うこと。楽器が石だったり木だったりした時代から考えると、人は何万年も繰り返してきた営みなのです。そう考えると、こんなに素晴らしい歌がたくさんあって、何を歌ってもいい自由があることに、感謝です。好きな歌が歌える時代は幸せです。

子どもは今日も全力疾走だあ!

2020/12/04

子どもは振り返らない、未来の時間に生きている。子どもの魂のベクトルはそうだからこそ、明日のために今日を確認したい。そんな時間が、夕方のお集まりに流れ始めました。

わいらんすい(3〜5歳)の夕方4時45分から5時ごろのことです。3時のおやつを食べ終わると、好きな遊びが始まるのですが、いったんその時間に1日の区切りをつけるためのお集まりがあります。今日は何が楽しかったか、何が面白かったか、自分なりに思い出して語ります。

「将棋が楽しかった。負けちゃったけど」(明日、勝ように頑張ってね)

「塗り絵」(楽しそうに○○を描いていたよね)

それを聞いていると、いったん語ることで明日への展望になっていくのかもしれないと思えます。

サンタからのお手紙、佐久間公園でのリレー、紙芝居、すき焼き風しいたけの味、干し柿の味・・いろんな体験を思い出しながら、自分の中で「楽しかったことって、どれかな?」と自分と対話しています。こんな瞬間が、何かを形作っていくのでしょう。

お家の人に何をどう語っているのか、私たちは分かりませんが、お集まりでの友達の発言を聞くことで、一人では気に留めてもいなかったことが意識されて振り返る幅が広がっているかもしれません。

子どもの意欲と好奇心というものは、本当に留まることを知りません。朝から夕方まで、全力疾走です。大人の私たちも、毎日疲れ切ってバタンキュー!です。

 

第3回 STEM保育 水と油と絵具のコラボ

2020/12/03

科学実験は色々なものがありますが、私の好みは普段の生活の中で何気なくやり過ごしていることを、改めて真正面から取り上げて、実験や観察をしてみるというやり方です。大人もびっくりするような美しさや不思議さと出あうことができます。この方法は日常的に使っている感覚を「拡大する」という方法です。私は「虫眼鏡理論」と名付けました。見る、聞く、味わう、かぐ、触るという五感の機能を拡大するのです。例えば「見る」の例なら、虫眼鏡や顕微鏡や望遠鏡で「見る」のです。そうすると、肉眼の解像度では見えなかったものがより「見える」ようになります。小さいものを大きく、遠いものを近くに見るのです。

これは視覚の例ですが、聴覚も味覚も嗅覚も触覚も「拡大する」ことができます。そうすると、それまでの世界が全くちがってくるのです。同じ世界のはずなのに、全く異なる美しい真実を見せてくれるから面白いです。

今日は「サラダドレッシング」をじっくりと観察してみました。すでに混ざっているドレッシングを見るのではなく、水と油の段階からそれぞれをじっくりと見るのです。具体的には次のようにやってみました。

ガラスの瓶に水道の水を入れます。そこにサラダ油を注ぎます。油はボコボコと入っていくと、最初は油の水玉ができますが、しばらくすると透明になって、水の上に層を作ります。それだけでも「わあ、きれい!」という感想が漏れます。

そこへ、子どもたちが大好きな絵の具に登場してもらいます。今日は青と赤を使いました。絵の具を水で薄めてスポイドでそーっと垂らします。ここからは大人も未知の世界になります。

赤い水滴は丸くなって油の層の中を落ちていくのですが、そのまま通り抜けて水の層へ落ちていくかというと、そうなりません。水と油の境目の膜のところに留まります。しかもその膜が少し凹んでいる状態になります。それをすいすいのJくんは「油が底みたいになった!」と表現しました。

青と赤の水玉は、引き合って集まってきます。すると、しばらくすると、その重さから水と油の境目の膜が遂に破れて、す〜っと色水が水の層の中に流れ込んでいくのです。色水の方が真水よりも重いので、ガラス瓶の底に溜まっていくのです。

この一連の出来事は美しく、私は「この実験はね、心が落ち着く実験なんだよ。気持ちが綺麗になっていくんだよ」と説明すると、深い沈黙と納得が起きていることがわかりました。

水と油と絵の具の比重の違いが生み出す自然の演出の中に自然の法則が見えるのですが、例によって、その意味がわかるようになるのは、もっと後でいいでしょう。今は、目の前で起きている現状の美しさに目を奪われて欲しいと思います。

 

楽しい劇遊び「いいものを観た!?」

2020/12/02

もし毎日、保護者の方が読むといい日記があるとしたら、それは園長の日記ではなくて「ぼくの日記」「わたしの日記」です。ぼくは今日、こんなことが面白かったなあ、わたしはあれが楽しかった、あそこでこんな事したんだよ、そうしたらびっくりしたけど、○○ちゃんがこうしたから嬉しかった・・・こんな子ども目線の記録を読むことができたら、それにマサる保育記録はないかもしれません。

でも、それを読むと、心痛むことが描かれているかもしれません。「ぼくがあの時泣いたのは、悔しかったからじゃないのに、○○ちゃんは、わかってくれない、それが辛かったんだ、でも自分が悪いのもわかっていたけど、でも悪いのはぼくだけじゃなくて、だって先に始めたのは・・・」みたいな恨み節が描かれるかもしれません。

しかし、そんな記述がされることは、まず「ない」と言っていいでしょう。子どもは基本的には振り返らないのです、子どもには未来を見つめることの方が忙しいからです。すると、自分を振り返ることがないのなら、子どもが日記を書くなんてことは、そもそも期待できないことかもしれません。そういえば、昔は小学校で夏休みの日記なる宿題があり、毎日、それを書くのは苦痛だったことを思い出します。

もし、子どもが日記を書くことがあるとしたら、文学的素質に長けた子どもか、それとも未来が閉ざされているアンネ状態になっている時であり、それは発達の課題として深刻です。というわけで、とりあえず、子どもが書く理想の日記なるものはあり得ないという結論にしておきましょう。

それでも大人は子どもに1日を振り返えさせることがあります。その時、子どもはそのときに印象に残っていることを口にするものなのですが、今日はそれとはちょっと異なる発言を目撃しました。わいわいのKHちゃんが、他のクラスの劇遊びを見ることができて「嬉しかった」としみじみいうのです。それを私のそばで聞いたH先生によるとそれは「楽しかった、という意味だった」と翻訳してくれました。

今日12月2日に何があったのかというと、幼児はお楽しみ会で行う劇遊びをクラスごとに通しでやってみたのです。最初がわいわい組の「大きなかぶ」、その次がすいすい組の「エルマーの冒険」そして3番目にらんらん組の「ももたろう 」です。わいわい組の彼女は、その後のお兄さん、お姉さんたちの劇に心打たれたようです。少し大げさにいうと、今日は子どもたちは、観劇会を観たのと同じ経験をしたのです。劇遊びなるものの楽しさを味わうことができたとしたら、その経験は、きっと家族の人に話したくなるはずです。

「子どもは未来である」という言い方を私はよくするのですが、それは子どもの本質が未来に咲く花にとっての種のような状態だからであり、それとは反対に大人は、咲き終わった花であり、その種子や次世代へ命のバトンを渡すことに役割が移っていくので、どうしても過去を振り返るのでしょう。場合によっては前世まで振り返る大人もいますが、子どもにそのような関心や眼差しが生まれるはすがありません。

願わくば、私たち大人は、子どもが今日心動かされたことに共感できるといいのです。お楽しみ会の見方はそこに大きなポイントがあります。大人のために出来栄えのいい劇を演じることが目的ではありません。子どもにとって「楽しかったよ」「ほら、ここが楽しいんだよ、そこを観てね」というところに注目してあげましょう。どの子も、それをやることが楽しそうでしたよ。

アドベントカレンダーと将棋

2020/12/01

12月24日までのアドベントカレンダーが今日から始まりました。玄関の赤い靴下には、毎日サンタからのメッセージが届きます。

主にわいらんすいの子どもたちが楽しみますが、にこにこ組にも、外国製のアドベントカレンダーが届きました。大きなハウスの扉を開くたびに人形が出てきます。

今日の園長による読書タイムは、『エルマーときょうりゅう』の続きです。カナリアが棲むカナリア島の王様だけが知っている秘密が何か、というところまで読みました。「ねえ、宝物って、どこにあるの?」とすいすいさんの目が輝きます。王様が罹っている「知りたがり病」が、どうもすいすいの子どもたちに移ってきました。

久しぶりに千駄ヶ谷の将棋会館に出かけて「将棋セット」を買ってきたのが昨日の夕方。早速本日12月1日から、子どもたちの生活に将棋を持ち込みました。

将棋は日本で最も長い歴史があり、世代を超えて最も利用者が多いボードゲームです。81マスの盤上を40の駒が動き、さらに取った駒を好きなところに置けるので、その手数のバリエーションは膨大で、今もなお新しい定石が生み出され続けているという、稀に見る複雑なゲームです。それなのに5歳ぐらいになると駒の動きを覚えることができるので、園児でもすぐに実践できるのが魅力です。

「やりたい!」という子が6人ぐらい集まってきたので、4人を同時に相手にやり始めてみると、みんなとても意欲的です。「これ何?」「ぎん、だよ。横と後には行けないよ」といったやりとりを、4人それぞれとやりながら、実際に指しました。将棋会館で買ったのは4セット。それが初日にフル稼働です。そのうち1つのセットは駒1つずつに矢印で動ける方向が書いてあるので、将棋初心者には覚えやすい優れモノです。

12月中には、かなりの子どもたちが将棋を指せるようになっているかもしれません。

 

現代の民話

2020/11/30

昼食を子どもたちの隣で食べていたら、鬼滅の話で盛り上がっている時がありました。登場人物の名前当てクイズだったり、どうやって鬼をやっつけるかということだったり。そばで聞いていても、何が面白いのかよくわからないのですが、なぜか鱗滝左近次だけは「さん」付けだったりして、彼らの身近な物語になっています。私が生まれたのは1960年。その頃はすでにモノクロテレビが家庭に入り始めた頃。すでに子ども向けの漫画週刊誌もありました。それ以降に生まれた人は家にテレビのない生活を想像することは難しいでしょう。ましてや明治時代や江戸時代、さらにはそれ以前の子どもが接することができる物語といったら、家の人が語ってくれる民話ぐらいしかなかったはずです。その村に言い伝えられてきた「村ばなし」(松谷みよ子)が、主流だったのでしょう。

そのモチーフは、飢饉、疾病、戦争がほとんどです。いつも腹を減らし、ひもじい思いをして暮らしていく知恵や教訓が「言い伝え」られていったのでしょう。民話を聞き集めている小野和子さんが、次のような話を紹介しています。

「ひどい飢饉に見舞われた年のことだ。旅人がある家を覗くと、みんなで蕎麦を食っていた・最後の食糧として残しておいた蕎麦の実を挽いて蕎麦を作り、それを食っていたところだという。そして旅人にもそれを振る舞った。思わぬご馳走に出食わして、旅人は喜んでそれを食うと、礼をいって歩き出した。しばらくいくと、手に鎌を持った男に出会った。つい、蕎麦をご馳走になったことを話すと、男は「食ったあと湯を飲んだか」と尋ねた。「急いでいたから水だけ飲んできた」というと、男はやおら持っていた鎌で旅人の腹を裂き、なかから蕎麦を引っ張り出して、がつがつと食ったという。蕎麦は湯には溶けるが水には溶けないのだ。」

「だから、腹の中の食べ物を誰かに食われないように、物を食った後は必ず湯を飲めよ」と諭してこの話は終わるのだと言います。

こんな話が語られていた時代の切実なテーマは飢餓の中でどうやっていきのびるか、だったのです。確かに今の時代は飢えて死ぬことはなくなったかもしれません。しかし、病気や病原体の危機は現実に進行中です。その状況を民話にすることはしませんが、小説や映画や音楽やコミックの中の「メッセージ」になって、文化現象を産んでいると捉えれば、これらが現代の民話なのかもしれません。

無症状感染者を特定できる検査方法へ早急な転換を

2020/11/29

毎週ごとに振り返ったり、月ごとに思い返したり、半年とか一年というスパンで俯瞰してみたりすると、やっぱり「コロナ時代」の真っ只中にいる「今」を切り取るための物差しは、14世紀のペストや第一次世界大戦後のスペイン風邪の例を思い出さざるを得なくなり、人類史という「なが〜い」尺度になってしまいます。その結論は、過去に学んでいる人々の知見は、政治の判断に反映されないという矛盾したものです。

原理的にさえ思考すれば、感染を広げたくないなら、病原体がどこにあるかを特定して封じ込めるか、人間の方が抵抗力を持つか、その2つしかありません。ワクチンがまだなく、集団免疫獲得政策が現実的でないこと(スウェーデンも規制を強化中)を踏まえれば、病原体の封じ込め策を徹底するしかありません。それが論理的な帰結です。

春の第一波から、いまだに誤ったままの対策に留まっている理由は「濃厚接触者でない限り、無症状の人には検査はしない」という、厚労省・感染研村の組織的体質を引きずったままだからです。国の方針はPCR検査の劇的な量的拡大を進めないので、市場原理が働かずに民間企業の検査コストも下がりません。この構造問題を改善できないまま、第3波を迎えてしまいました。今の政策では、オーバーシュートは確定的になってしまいました。

8割が無症状で感染し、人に知らない間に移している以上、2割周辺だけを検査しても補足できないのは当たり前です。世界的にみても(台湾)、日本でも(北九州市)、感染源を押さえ込んでいる成功例は、感染が発生した施設やエリアを徹底的に検査しています。ところが日本政府の現在の感染対策は、個人の予防啓発と飲食店だけなので、感染を止めることは到底できません。

第二波は完全に消火しないで、火種を残したままだったので、再発火してしまいました。検査&隔離及び本人及び事業所への補償が不十分なので、検査拒否も生まれてしまいました。とにかく原点に戻って予防検査の充実を急ぐべきなのです。このままでは、緊急事態宣言を出さざるを得なくなるでしょう。本当に困ったものです。

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